枕 経

弔ひの夜はよく爆ぜる炭火かな 玉宗
死者の枕もとであげる読経を「枕経」と言います。
末期の水を含ませ、手を合わせデスマスクを拝していつも感じることがあります。それは「ごくろうさま」という言葉に象徴される感慨です。故人とは殆ど他人であることが多いにも拘らず、自然とそのような感懐が湧いてきます。まして遺族となった方々の思いはどうなのだろうかと感じ入らずにはいられません。おそらく、「ごくろうさま」そして、「ありがとう」といった思いでしょう。
人はその人生に於いてどれだけ別れや出会いを繰り返す事でしょう。今生の訣れに際しては、この世に遺されたという思いと共に、生きることはやはり一つの、「おつとめ」なのであろうと痛感するのです。
死者が生き返ってその目的を語ってはくれません。存在しなくなる目的を受け入れることは難しい。「死」という最後の「おつとめ」を受け入れるための人生。生きていることは死を受け入れるための試行錯誤のようにさえ見えてきます。「死」を受け入れるための「生」。「死」があるからこその「生」。
「有る」ことは「無い」という条件の元に成り立つ、そんな命の表裏一体性。そのような命を戴く人生のお勤めに、「ごくろうさま」、そして、「ありがとう」と言える人間でありたい。仏弟子でありたいものです。 〈 法話集『両箇の月』より 〉

「茸狩り」
山祇の懐深く茸狩り
垂乳根のタンスのにほひこのみ茸
滑子採り滑つて転び尻濡らし
舞ひ上がりやがてむなしき茸狩り
松茸を喰うて天下が取れるなら
毒茸と言はれてみればさうかとも
宿六が頼みもせぬに茸狩り
気の置けぬ輩同胞茸鍋
手に受けて月の冷えある秋子かな
無邪気にも紅を纏ひぬ天狗茸
偉さうに茸狩りより戻りけり
抜きん出て森の一本しめじかな
ここに来て坐れと月の猿茸
月光に誑かされて月夜茸

「風なき日」
秋蝶来空が壊れてしまはぬうちに
秋燕それどころではなき日々の
蜂が来て塗れてゆきぬ秋薊
コスモスのつまらなさうに風なき日
木瓜の実の瘤が梢に三つ四つ
団栗を拾ひ過ぎたるむなしさよ
黒木積む里に出でたり茸狩
少し冷えて紅葉狩りより戻りけり
町の子に喰うてみせたる一位の実
枝豆を喰うて仲良くなれるなら
いつもただ旅の途中やいぼむしり
蓑虫の聞きしは誰が溜息ぞ
缶詰の鯖の味噌煮を喰ふ夜長
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