俳句大学一日一句鑑賞

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『11月17日の一句』

「富士見ゆる軒に柿干す甲斐の国 正則」
「縄跳びに冬の落暉を入れて跳ぶ 昼顔」
「赤城より凩来たる厩橋  泰與」


写生句の醍醐味は作者の独自なる視線に出会う事であろうかと。それはそのまま作者の感性との出会いでもあろう。全面的に共感できればそれに越したことはないが、全面的とは言えなくても、ある程度共感できてもいいね、というのが詩を共感している実際のところではないのかなと思ったりもする。

 それにしても句会の「場」とは直に作者の顔、息遣いにま見えている現場でもあろう。柄にもない俳句をものにしてもそれは本人が悦に入っているだけのことで、つまり「作為」が露見するのが最短定型詩の面白みであり怖さでもある。なぜか誤魔化しが利かない。たかが十七文字だというのに。

 人の作品の物真似なんて可愛いもので、それはそれで作者の独自な感性なのかもしれんが、それだけのことで作品的には何の価値もないという破目になったりする。感性と言えば目に見えない領域で、人様にはなんとでも言い逃れが出来そうだが、現実はそうでもなく、というか真逆で目に見えない筈の感性、心模様があからさまに十七文字に表現されるというのだから、これはもうほとんどマジックである。
 言葉を使いこなす力量もなんだが、自己の感性を磨く力量が試されている世界でもあろうね。だれ一人として人並には生きてはいない。人並の感性なんてありそうでない。それは妄想である。よくも悪しくも、嘘も誠も、蛸も糸瓜もすべて自分並のいのちを生きている。自分並の感性を持ち合わせている。あたりまえか。

 自己の感性を信じる力量が表現者には求められているとも言えようか。凡百の表現者が自分並ではなく人並の感性を自分のものと勘違いしたりしている。俳句だけに月並の落し穴があるのではないが、言い訳する文字数もないことから尚更のこと作者の人柄が出ちゃうんだろうね。誤魔化しが利かないということはつまりそういうことだったんだろうかな。


 ということで、自己の感性のゆるぎなさに一句をものにした観のある作品を三つほど。みればそれなりに姿のいい句になっている。見るべきものを見ている。だれがなんと言おうと自分の眼差しを信じているようである。当然のように言葉の斡旋、措辞も借りものじゃ済まされないということになる。つまり、言葉も感性の所産であるということ。というか、感性と一体のものと言った方が真相に近いんじゃないかなと私なんかは思う訳。

「富士見ゆる軒に柿干す甲斐の国 正則」
既視感があるほどに、いい景色が眼前に見えてくる。誰の目でもないが、然し、表現されたものは誰の目にも飛び込んでくるようなものでもあってほしい。

「縄跳びに冬の落暉を入れて跳ぶ 昼顔」
誰かが詠んでいる感がなくもないが、誰も詠んでいなかったのではないかといった感が拭えない。視点の妙が詩的世界を再現してくれた。

「赤城より凩来たる厩橋  泰與」
「凩」が「来る」という把握に味がある。「厩橋」という固有名詞が大人だねえ。「君の名は」という映画があったらしいけど、こんな情景だったのかしら。脱帽だな。





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「裏表」

山祇の懐深く冬安居

小春日や母に大きな坐り胼胝

能登沖の空を暗めて鰤起し

捗らぬ終活ただに着ぶくれて

枯野ゆく夢の入口出口とも

海鼠腸を肴に愚痴の止めどなし

鶏頭の憤怒極まり黝ずみぬ

参道に裏表ある世の寒さ

神留守の根太疼ける尻つぺた

千年も去年もまぼろし冬夕焼

磯潮に遊ぶ月夜の海鼠かな

湯の滾る音にも霜の夜なりけり

狼と同じ月見て眠るかな



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「日なりけり」

とりとめのなくて翁の日なりけり

天上を風晴れ渡りる小六月

行きずりの誰彼遠し帰り花

曳蟷螂の枯れ極まりて棒となり

売りの荷車止め枇杷の花

落葉掃くほかは用なき日なりけり

大寺の甍を越えて舞ふ木の葉

山茶花や道草覚え初めし頃

騙されて悪い気はせぬ花八手

冬菊の光りのどけき日なりけり

蜜柑剥くこころ恕せる人とゐて

神の留守山越えて来る薬売り

よちよちと手の鳴る方へ黄落期

柚子風呂に満足したる日なりけり



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