俳句大学一日一句鑑賞

「11月22日の一句」
「マシュマロの淡き食感雪催 泰與」
取り合わせの句である。
つかず離れずが理想とは分かっていても中々その離れ具合、つき具合の加減が難しい。
イメージがどのくらい広がるかがポイントなんだろうけど、取り合わせの句は作者より鑑賞する方の詩的世界の広さと共に距離間が試されているのかもしれない。離れ過ぎとは作者の一人よがりだろうし、つき過ぎは作者不在になりかねない。主観性と客観性を兼ね備えるという、まさにそこが表現者の力量が試される。
マシュマロは年間を通じて食することができるのだろうけど、雪催いの空気感、生活感になんとなく嵌る。「甘き」ではなく「淡き」としたところが手柄じゃなかろうか。雪が来そうな空への「淡き期待感」に通じるものがある。私は甘党だから年がら年中甘いものを欲しがるが、何故か冬の方が甘いものへの購買欲が募りそうだ。
マシュマロの甘く淡き食感と雪催いという甘く淡き期待感。つかず離れぬ世界の潤いがあるじゃないか。

「いつも」
仄かなる光陰木の葉しぐれかな
落葉掃きするにいつもの竹箒
手足荒れふるさと忘れ難きかな
綿虫の行くあてのなく来たりけり
うつつにて眼差し遠き猟夫かな
いつもとは違ふいつもの冬景色
ぐつぐつとものいふ煮込みおでんかな
帰るさの山茶花の道いつもの道
貧しさの身にしむ家の寒さかな
うつし世の心変はりよ帰り花
いつもある父の遺せし箱火鉢
先生と子規を語りし炬燵かな

「谺」
冬杣の空に谺のするばかり
時雨るゝや壁に窶れし頭陀袋
百日を蛹の眠り冬安居
山彦の谺もあらず眠りをり
小雪や弁当箱に飯冷えて
大王が吐息に死ぬる雪婆
羚羊の立ち現れて消えにけり
熱燗や止まり木に世を儚める
手のひらに山河ありけり荒れにけり
外浦の夜空ゆるがし鰤起し
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