俳句大学一日一句鑑賞

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「11月23日の一句」

  「寒鴉熟女ふたりに及ばざる 夢彩」

 俳句を評価することばに「面白い」というのがある。「俳句的おもしろさ」と「川柳的おもしろさ」と分けてみたいところだが、要するに最短定型詩の「面白さ」に帰着するんだろうとは察しが付く。いずれにしても「俳句は感性による認識」であるという写生俳句を唱導した澤木欣一の言葉を真に受けて話をする。

 で、その「面白さ」なんだが、「詩的魅力」といってもいい。「詩」とは「批評眼」でもあろう。それを俳句という眼前描写という手段で成そうという訳だ。常識を覆す、或いは常識を笑う。だれも見たことも、聞いたことも、したことも、しなかったこともないやうな「定型詩的発見」ということではなかろうかと思ったりする。みることがそのまま「批評」を実現するという、定型詩的表現の奇蹟っていうんですか。

だから当然、理屈ではなく、説明ではなく、「詩」であるということが最低眼にして欠かせない「面白さ」の条件になりそうだね。
 で、もうひとつ欠かせないのは虚実の付き具合、離れ具合かな。一句の中に「実」へのスリットか又は「虚」へのスリットが用意されているに越したことはない。そういう意味での「写生」の本質を兼ね備えていることがわたし的には望ましい。あたりまえのことだが、韻文であって散文ではないということはそういうことでもあろうかと思う訳。

 観念一辺倒、主観一辺倒、虚一辺倒、実一辺倒では面白みに欠けるというのが正直なところ。その辺が最短定型詩の宿命であるかもしれない。次の句はそういう意味で何気に、理屈抜きで面白かった。これは俳句ではないといわれても一向に構いません、わたしは。

「寒鴉熟女ふたりに及ばざる 夢彩」

主観を述べてはいるんだが、「寒鴉」も「熟女」も見えてくるのは確かだ。写生に即し写生を越えたということだね。時季的に未だ「寒」ではないが、まあ大した問題ではない。

身もふたもなく「寒鴉」という季語が生き生きしているじゃないか。そんな「寒鴉」が束にかかっても叶わない「熟女」の存在感。
 二つは及ぶ及ばないといった間柄ではないのだが、「存在感」を競うことはできる。作者もそこに着目したのだろう。「実」に即しているということ。そっぽを向いていたのはどっちかな。

現代版俳句的感性の面白さっていうんですか。その挑戦的な世界が定型詩の未来を開くのかもしれないね。芭蕉や子規に見せてあげたいな。感想を聞きたい。


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「大根」

朝粥に眼鏡曇れり雪安居

總持寺の大根托鉢霙がち

引き抜かれ晴々したる大根かな

托鉢の先導にゐて風寒く

人の世の隅つこにゐて悴める

墨染の袖も色褪せ山眠る

日の暮れぬうちに大根洗ふなり

大根を洗ふ芯まで冷えきつて

干されたり漬けたり雪の来る前に

これよりの風の百日冬安居

大根を干すには持って来いの風

生まれ変る不思議な月日干大根

木枯しを枕に眠る仏かな


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「目鼻」

顳顬に時刻む音憂国忌

切株に十一月の日差しかな

柚子味噌を舐めてごらんと迫らるる

山茶花や空のだんだんつれなくて

門跡に吹き溜まりたる散紅葉

うたた寝をすればどこかで笹子鳴き

闇黒に目鼻付けたる海鼠かな

海光の映ゆる蜜柑の黄なりけり

侘助や淋しらの世に遺されて

先をゆく跫ばかり冬木立

綿虫の命からがら浮き沈み

一人夜に堪えずして剥く冬林檎

ねんねこや星も鳴りだす子守唄


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