冬安居雑感

暮れてゆく鐘の音にも冬安居 玉宗
近頃は暮れるのも早いが、夜の明けるのも遅く、勤行を終えてもまだ外が暗い昨今である。いつも4時には起きるようにしているが、特にお坊さんが朝が早い訳ではない。町内では新聞配達、豆腐屋さんが朝早くから働いている。漁師さんも早い。というか、前の晩に出漁し、早朝に帰港することもあるようだ。夏場などは農家の人たちも夜明け前には起きているだろう。昔は寝坊をすると「お天道様に申し訳ない」と恥じ入る大人が多かった。
總持寺祖院も中旬に冬安居に入った。
僧堂では朝の梵鐘を起床後まもなく毎日撞いているのであるが、興禅寺にもその音が聞こえてくる。弟子の孝宗が上山する前に、何度か一緒に朝の坐禅をした。あの時も坐禅中の祖院の梵鐘が聞こえていた。
「いずれお前もあの鐘を撞くことになるんだよ」と諭したことである。
夏場はまだ朝の涼しさの中で鐘楼であるが、これからは北風の吹き晒すなかでの鐘司のお勤めをしなければならない。鐘の音ひとつにも修行の真偽、深浅が知れるというもの。誤魔化しがきかない世界でなんともなく生きていけるようになってこその仏道である。誰のための精進でもない。自己を知り、忘れ、超越し、再生し、清浄にするためのもの。暑さからも、寒さからも逃げず、まっすぐに真向かい今に決着する。それを成仏とはいうのである。
お坊さんの暮らしは基本的に早起き早寝で、言ってみれば結果的にエコで、合理的な生き方を志向していると思っている。それもこれも仏道の本質から外れた無駄を省かんがためであろう。本末転倒してはならない。早起きのために仏道をしているのではない。寒さに耐えるために仏道をしているのではない。仏道をなさんが為の早起きであり、冬安居なのであり、自己のため、仏身のためなのであるということ。
その鐘撞堂には「常説法」という扁額が掛かっている。鐘の音がそのまま法を説いているという自覚がある。諸行無常をわがものとしてゆく無心がある。いつもいまゝここにあるべきいのちの戴き方なのだという生き方がある。いのちまっすぐ戴き生きる。それを勤精進とは言い、持戒とは言うのである。
師匠である私も、実は祖院の鐘の音を聞くたびに弟子の精進に負けないようにせねばと肝に銘じてはいるのである。思えば有難く、勿体ないことではある。


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※新年のご挨拶にかえて
皆さまにはコロナ禍とは申せご清寧のことと拝察申し上げます
七月に受業師板橋興宗禅師御遷化
十月に義兄を亡くし喪に服しております
公私に亘り御厚誼、御法愛を賜りましたこと心より感謝申し上げますと共に、つきましては年始のご挨拶を控えさせて頂きます
明年もなにとぞよろしくお願い申しあげます
市堀玉宗 合掌

「栞」
銀杏落葉旅の栞と差し挟み
葱刻む音にも妻に紛れなく
障子貼り他人行儀な部屋となる
白菜の芯に水子のやうなもの
大根の泥を葉つぱで拭ひけり
夕されば湯の沸くやうに花八手
山茶花やだれも迎へに来てくれず
綿虫やおつりを握り帰るとき
紅葉散る空のしづけさ奥深さ
暮れてゆく流れに大根洗ひをり

「カタカナ」
カタカナはなんだか他人冬景色
引き抜いてくれとばかりに大根が
望楼の沖はアリラン冬柏
覗き見をしてきた貌やかいつぶり
鴛鴦のほとんどストーカーではないか
畳替え妙によそよそしき妻で
こんな日は知らぬ素振りよシクラメン
伏せ葱の身を起したる冬の雨
玄関に出前の届くポインセチア
焼芋に目がなき嫁を貰ひしか
クリスマスローズマリアに恋をして
一日があつといふ間におでん鍋
日本の裏はブラジル大根引く
これよりの能登の荒海親鸞忌
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