俳句大学「一日一句鑑賞」

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『11月8日の一句』

「大鷲の風を呼び込み飛びたてり 満徳」

 つらつらと何の脈絡もなく俳句の正体や可能性について思いを巡らしてみた。今更ではあるが「俳句とは何だろうか」とときどき我に返ったかのように自問自答したくなる。最短定型詩という定義に異議を唱えるものはいないであろう。「詩」「韻文」なのである。「叙述」「散文」ではないのである。世界一短い詩であると自慢気に指摘する人もいる。「詩」とはなんだろうか。

 「存問」「挨拶」という表現者の楽屋裏のような絡繰りがある。和歌、俳諧の流れを汲んで今にある現代俳句にあっての「詩」とは如何なる状況になっているのか、いないのか。

「結社の時代」と喧伝されたこともある俳句界。様々な意匠を以て現代俳句の可能性を試みている一群もあれば、伝統俳句というあるようでないような「俳句の伝燈」を金科玉条にして切磋琢磨している一群もある。

 「不易流行」という真髄がある。俳句の俳句たるは「あたらしみ」にあるという俳人もいる。日々呼吸するように、前の息がなければ今がないように、いつも今、ここに、きれいさっぱり跡形もなく消えてなくなる。そんな儚くも、生き生きとした、なまなましくも、潔く、空しくも逞しい息使い。言葉というわたしの影とも光りともなる灯しと共にあることの不思議。いのちがそうであるように、俳句はいつも古くてあたらしい。

 しかしながら 俳句も又「自己表現」とは言いながら、ありきたりな、中途半端なところ、常識界隈で満足しているちっともあたらしくない自己がいたりもする。

 俳句は又「大衆文芸」でもあるとされる。「大衆文學」とも言われたりもする。俳句が習いごと、芸事といった一面も否定したいが否定できない現実がある。師系というものが存在する文芸とは実に面白いものではある。

 そもそもが「表現」は自己完結してはいけない。「読み手」に開かれている「窓」のようなものでもある。なければならない。だれかが明けてくれなければ「作品」足り得ないことは俳句にあっても同様でもあろうことを認めないわけにはいかない。

 そうではあるが、読者に媚を売るような真似事であっていい訳がない。「詩」とは「批評」でもある。「俳諧」にあっては世の権威に媚びようとはしなかった隠者の誇りが脈打っていよう。

「造化の妙に遵う」表現者の眼差し。それは常識を覆すものでもあっただろうか。

 とまあ、あれやこれやと思うことは多く尽きないが、すべてこれ「理屈」である。作品だけがすべてだ。「文芸」「文学」「表現」とは「出会い」でもあろう。ときにあらわれる有無を言わせぬ一句を認め、共感するのに吝かならない謙虚さを持ち合わせてはいたいもんではある。
 

ということで、満徳さんの一句に俳句の理屈を超えた作品のゆるぎなさがある。
「風を呼び込み」という感受性が写生の醍醐味を余すところなく実現している。懐の深い、如何にも泰然とした風に生きる大鷲の姿が見えてくるではないか。



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「向かう側」

霜の朝粥を啜れば睫毛濡れ

冬菊や母にむかしのにほひして

琵琶の花よりそふ影もなかりけり

雨音のやがて窓打つ初霰

八手咲く神楽の鈴の花掲げ

時雨るゝや雪見障子の向かう側

外に出ればすでに日の暮れ石蕗の花

綿虫やあてなき空のゆふまぐれ

灯点さぬ部屋の寒さに帰りたる

裏山の夜の闇より狸来る



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「妙な」

時雨れなる妙なあかるさ仄暗さ

着膨れて神も仏もなかりけり

盲目の愛はあやふき兎かな

手品にも飽きたる貌やかじけ猫

最果てのここに幸あれ干し蒲団

凩をヤクザとおもふ窓辺かな

手探りの夜の底より来る狸

むささびが夜の背筋をひとつ飛び

星空の濡れゐたるかに雪安居

キタキツネ月の中まで跳び上がる





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