俳句大学「一日一句鑑賞」

123681760_2731171557007935_3209784156368998985_n.jpg


『11月10日の一句』


「木枯らしに攫われていく薬指  素子」
「大蒜を叩きつぶして虎落笛   草民」


 「句意明解」をよろしいとするのが大勢である。とくに写生俳句を唱導するにあたってよく目に耳にする。然し、どうだろう。「句意」が「明解」であるということはどういうことか考えてみたことがあるかな。俳句が定型詩であることを認めるならば、「詩」とは「思惟の理解」だけでなりたつものではないのではなかろうか。「説明」されている「句意」とはじつに詰まらないことが多い。

 「詩」を「理解する」とは散文的理解で満たされない「感性の領域」に属するんじゃないのかな。「思考」のアンテナではなく「感性」のアンテナでもって「共感する」「感動する」「身震いする」「耳が聳つ」「鳥肌が立つ」「味わい深い」「腹が満たされる」といったなんだが訳が分からんが、腑に落ちる体のものであるような気がするんだけど、どうだろう。

 最短定型詩たる俳句の「句意」とは詩としての意が尽くされているかどうか。「詩的表現」であるかどうかが試されているような気がする。それは所謂「写生俳句」にあっても同様で、写実に添って写実を越えたところに「詩」が暗示、提示されていなければならんだろう。そこが「明解」かどうかが一句として自立していることを証明するんやないのかな。

 頭で理解するのは散文的常識世界でのことで、そんな世界でほとほと痛い目に遭っての俳句文芸という徒なることに身を窶し、骨を削り、腸を焦がしているんじゃなかったのかな、俳人とは。違ったらご免なさい。理屈を越えていて、割り切れない領域は人生そのものでもある。
 「詩」とは「ことばの再生」「人生の再生」でもあろうかと思う訳であるが、そんな見たこともない聞いたこともない一句に出会うことは、そのまま私自身の地平の新展開でもあるだろう。そんな作品に出会いたいものではある。この期に及んでも、鑑賞者は自分のことしか念頭に置いていないことは明白である。


「木枯らしに攫われていく薬指  素子」
「大蒜を叩きつぶして虎落笛   草民」

 どちらもそれなりに説明できないこともないだろうが、説明することが目的でもないようないい意味での「無責任さ」「奔放さ」「詩的自立感」が漂っていて興味深い。

 「薬指」は女性的なものの寓意だろうか。或いは象徴だろうか。或いはタブーだろうか。なんでもいいけど「喪失感」が一句に「明解」ではないか。「木枯し」がいい味をだしているじゃなかろうか。

 「虎落笛」が「大蒜」を「叩き潰した」のではなかろう。恐らく、「大蒜」を叩き潰してしつらえる料理と「虎落笛」との取り合わせだネ。まあ、今時のスタミナ料理かな。

ことほど左様に、詩的作品とは様々な妄想、空想、思想、連想を醸し出してくれるでたらめさ、自在さ、寛容さ、可能性がある。
ということで、素子さんも草民さんも、散文としては破綻しているのだが、先述のように、定型詩的には、つまりなんだか解らないが見たこともない魅力的な世界が紛れもなく垣間見えるという意味で「句意明解」ではなかろうかと思う訳である。ご自愛を祈る。


123681760_2731171557007935_3209784156368998985_n.jpg


『11月12日の一句』

「利根川の十一月の河原かな  泰與」
「空つぽの南部鉄瓶冬座敷 紀宣」


大雑把な描写とも言えるが、主観という夾雑物を交えない、削ぎ落すということで対象だけを提示し、感動を伝えようとしているのは間違いない。

その感動とは如何なるものかということになるのだが、季語は「十一月」。あり難いことに季語は詩語でもある。言うまでもなく季語季題は定型詩にが欠かせない前提条件であるというのが伝統俳句、季題趣味諷詠俳句の醍醐味でもあり、首枷でもある。

この句の場合、季語が動くだろうか。季語が動くというより「利根川」「河原」が動くのではなかろうかと一瞬思わないではない。例えば、「阿武隈川の一月の河原かな」「四万十川の十一月の河原かな」といった塩梅である。「冬座敷」の句も同様である。

嘗て正岡子規の「鶏頭の十四五本もありぬべし」という写生俳句の金字塔とでも言うべき作品に対して、季語がうごくのではないかといったちょっとした論争?があった。「冬菊の十四五本もありぬべし」「枯蓮の十四五本もありぬべし」といった具合である。然し、私に言わせればこのような論争は不毛である。俳諧の醍醐味は「あたらしみ」でもあるということは、今、ここに感動を新たにするという表現の醍醐味でもある。

文台引き下ろせば即ち反古となる瑞々しさがその真骨頂でもあり、今の感動を分かち合うという「場」の真相でもあっただろう。そもそもが季語が動くとか動かないとかそれは一体誰にとってのどんだけの大問題なのだと言いたい。情報化社会の恩恵と弊害も避けられない現代俳句事情ではあろうが、本来「句会」というものは「一度限りの表現の場」であっただろう。

俳人に求められる良心とは人の俳句を真似はしないということだけではなく、人の作品を論う以前の問題でもある。季語がうごくんじゃねえ?と論う前に、有無を言わせぬ一句をあんたは作れるのか?と上げ足を取ることもできるのだ。見方を換れば、子規の句は不毛な論争を生みだすほどに前代未聞の一句でもあったと言う事だったというのが真相だろう。

そのような季語の奥深さ、懐の深さを受け入れる寛容さをもって二句を鑑賞するに、「十一月」という水の涸れ、木々の枯れ、空の乾き、風の色、雲の流れからくるうつろなる眼差しに映る広々とした地平の世界があろう。そんな「十一月の河原」なのである。「利根川の河原」それも水の涸れ初めた利根川の河原。作者はその「蕭条たる」「渺々たる」自然の有り様に詠嘆するしかない感動が湧いたのでる。「冬座敷」という寒々しさを「空っぽの南部鉄瓶」が配されていることで再認識したのでろう。或いは「南部鉄瓶の空っぽ」さ加減が如何にも「冬座敷」に似つかわしいことが腸に沁みたのかな。

鑑賞するとはどれだけ作者の感動を追体験し、寄り添えるということでもあろうか。言い過ぎてはいけない。説明してはいけない。それは感動に寄り添うのに邪魔でしかないからだ。何事も過ぎたるは及ばざる如しだね。





IMG_3313.JPG

「心地」

バス停にベンチが一つ神の留守

よく眠る山ふところに籠るなり

皹の手となるたび思ひ出す故郷

綿虫や遺されし世をだれもみな

生みたての卵は温し初時雨

股引を穿かんとすればつんのめり

着ぶくれて楽屋裏なる心地せり

縄跳びの波に攫はれ大人になる

たひらげてみれば虚しきおじやかな

裸木となりて夕星飾りけり

熱燗や筋金入りの人生に

厠へと妻の蒲団を跨ぐなり


IMG_0060.JPG

「さつきまで」

水汲むや冬三日月のあさぼらけ

木の葉散る真つ逆さまの深空あり

身籠りのしづけさにあり毛糸編む

さつきまで一緒だつたの帰り花

山茶花やいつもの道の懐かしき

実南天簪なして垂れにけり

柄にもない男が一人北風に

ぽんぽんと弾けて八手花となる

鐘撞いて眠るばかりぞ五郎助ほう

葛湯溶く夜更けて母は鬼女となる



この記事へのコメント