不肖の弟子の弁明?!

僧となる不思議な月日干大根 玉宗
先日、大本山總持寺に於て閑月即眞禅師雲海興宗大和尚の荼毘式禮が厳粛に執行された。出席を誘われたのだが思うところがあってお断りした。その思うところの一端を書いてみよう。
私が縁あって板橋興宗禅師に得度して戴いたのは昭和56年である。当時は公職として大本山總持寺祖院の後堂職に就いて居られた。自坊は武生(現・越前市)の瑞洞院である。
その瑞洞院で得度式を挙げ、初めての僧堂修行である新居浜の瑞応寺専門僧堂へ安居した。安居して一年ほどすると師匠が加賀大乗寺の住持職に就いたと人伝に聞いた。当時の私は駆け出し雲水で、名のある宗門寺院の歴史も格式も存知していなかったと言ってよい。その後、大乗寺は板橋禅師の下で「専門僧堂」の看板を再び掲げることとなる。私もほどなく師寮寺となる大乗寺へ帰単した。
あの頃の私は出来損ないなりに苦悩しながらの修行ではあった。私にしてみれば師匠が大乗寺という大寺の住職になることなど予想外のことであったし、戸惑いもあった。そのような「肩書・地位」などどうでもよかったと言った方が本音であった。その後も宗門最高位の「貫首」という公職に就かれることになるのだが、高位に就かれるたびに師匠が遠くの存在になって行く寂寥感を味わっていたものだった。
得度。それはお坊さんの世界へ導いてくれたと言う事である。私にしてみれば板橋興宗は「仏道の世界での生みの親」なのであった。出家とは私にはそれほどの進退極った世界だった。血は繋がっていないが私には仏道の世界での親子の情があったのである。我儘な言動の奥には理屈抜きの師匠へ対するそのような思慕が確かにあった。
傍目には親の七光りを嵩に着た傍若無人ぶりに見えていたことであろう。「あの、馬鹿がいい気になって・・」というようなもの。「運がいいのも実力の内だ」というもの。毀誉褒貶、蔑視、或いは無視という様々な反応の中で不肖の弟子は生きていたのである。
それにしてもである。そのようなわが思惑を含めて、私が師匠を師匠たらしめる弟子ではなかった事も又事実である。その辺は当初から弁えているつもりであった。自分で言うのも面映ゆいが、馬鹿息子というのは単純なもので、師匠の迷惑にならない様に生きて行かなければと無い知恵を絞っているものだ。然し、その顛末は悉く師匠の顔に泥を塗るような仕儀の連続であった。自業自得、足掻きのスパイラル。それもこれも仏道の何たるかを知らないことによるものだ。
仏弟子でありながら無為とは対極の愚かさの中で生きていたのかもしれない。私は板橋禅師に嗣法(免許皆伝)して戴けなかった。当然であろう。仏法は人情を越えている。越えなければならない。それが仏道の厳しさというものである。私は禅師様の法を受け継ぐような器ではなかったのである。
さて、そのような自他共に認める「不肖の弟子」の私であるが、世に「馬鹿な息子ほど可愛い」という言葉があるように、自分で言うのもなんだが、板橋禅師にとって私の存在はどうも、そのような代物だったらしく、何かにつけて声を掛け気を配って下さった。
大乗寺時代には謹慎中の私を探しに京都まで足を運んでくれたし、能登半島地震に被災した折も、真っ先に安否の電話を下さり、再建の歩みを励まし、援助してくださった。又、總持寺祖院に出仕していた折に私の解任動議が出た折も最後の最後まで弁護して下さった。挙げたらきりもないが、迷惑を掛け続けた弟子でもあった。そんな師匠への恩返しもならぬままの他界。当に、親孝行したいときには親はいない。
御誕生寺での荼毘式にはなんとか出席させて貰えたが、大本山總持寺での本葬には当初から出席するつもりもなかった。権威に祀り上げられた親父の葬儀に出席なんかしてやるもんか。それが親孝行を出来なかったバカ息子の心理でもあることを告白しておこう。
板橋禅師様は懐の深い、人徳のある仏道人であった。生れかわり、死に変わりしても返せない法恩を被って今の私があることを、心にも、肉にも骨にも銘じて生きて行かねばならないことを亡くなられて痛感している。禅師様の照鑑を希いつつも、これからは紛れもなく一人きりでの仏道の日々が続く。やはり初心に生きるほかはない。本望じゃないか。

「しづけさ」
茶を啜る十一月のしづけさに
便りめく林檎の重さ手に受くる
生贄に着飾る如し七五三
鯛焼の冷めぬ近さに待たせをく
俺だけの母の手になる蒸饅頭
ガラガラと嗽してをり神の留守
一つきりの今川焼を分け合へる
巡り来る声もうれしや焼芋屋
しづけさに舞ひ散る木の葉ありにけり
臭い飯食うたる顏や狸来
暮れてゆく跫ばかり冬めきぬ
手相見に差し出す寒きてのひらを
天狼へ夜の駅舎を吐き出され

「時間」
木の葉舞ふやうにも小鳥来りけり
冬めくと思ふ薬を待たされて
本を読むしづかな時間黄落期
野兎が信じられぬといふ貌で
痛い目に遭うた顏して焚火守
かわゆくて生意気盛り七五三
僧の来て日の短さを嘆くなり
總持寺の大根托鉢布令来たる
帰らざるふたりの時間蜜柑剥く
淋しらの夕日に影す木守柿
狸来る手探りの夜の向かうから
頻尿の月見て戻る蒲団かな
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