今日の法話・禅的信のありどころ



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明日も又生きるつもりの火を埋づむ 玉宗


「仏法の大海は信を以て能入と為す」という言葉があります。

「信」は私が世界を受け入れる為の最初の関門のように考えられています。つまり、私の側の都合やチャンネル操作、自律が問われているものの如くです。

しかし本物の「信」とは、「法」という「向う側の都合」を全て受け入れて生きている今の事実のことではないでしょうか。
生まれて、生きて、死んでゆくという流れの中で、ときにその自然さを受け入れることができないという人間の悲劇があります。

「今のこの命のまるごと」を肯うことができない私がいます。自分の都合通りに行かない世界への歯痒さ、苛立ち、公憤。
しかし、生まれて来たことも生きていることも、老いも病も死んでゆくことも、すべて私の都合ではなく「向うの都合」、つまり「いのちそのものの都合」ではないでしょうか。

人生とは「向うの都合」への答えとして生きているものの如くです。私が生きるという事実は「信じる、信じない」という話ではありません。
「自己を知ること、生きること」に「信じる信じない」などというこちらの都合、作為は無用、邪魔なものではないでしょうか。私の「信」などというものは本来ありません。強制など論外です。

「世界と共にある自己、自己と共にある世界」を知り、生きる切るには、「向う側」からの「信」をまるごと抱え、身も心も仏の方へなげれて行くしかありません。私は「法」の「信」を今、ここに生きています。  〈法話集『両箇の月』より〉

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「鬼籍」

あの人この人逝きたる年を惜しみけり

着膨れてものをおもふに似たりけり

年の瀬のまなざし遠き岸辺かな

数へ日やだれもあの世を帰らざる

子のために鬼ともなろう鎌鼬

家族ある如くに冬を灯しけり

手探りの波に揉まれし海鼠かな

ここに来て血は争へず手足荒れ

凍笛や能登の荒海夜もすがら

狐火や一族郎党みな鬼籍


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「雪の後」

幾山河越え来し雪のひとひらよ

雪折れの松を飾りに持ち帰る

実南天零れし雪のくぼみかな

雪の後雨に打たるる花八手

うち寄せて風にちぎれし波の花

楪を貰ひに雪の晴れ間みて

沖にまだ雪雲残る干菜かな

住み慣れし冬の景色も四十年

地吹雪の已まぬ路肩にバスを待ち

雪原を走る粉雪兎罠

夜の雪ヘッドライトに飛び込めり

髪剃りし頭の寒き夜なりけり

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