今日の以心伝心・方便現涅槃

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狐火の携へてゆく風土記かな 玉宗

 先日、板橋禅師の分骨が總持寺祖院に納められた。御誕生寺の新住職がわざわざ興禅寺に立ち寄って下さり、禅師の骨箱を床の間に置かせて頂き、献茶させてもらうことができた。鶴見の荼毘式には弟子の孝宗和尚が出席してくれた。遺骨に間向かうのは初めてである。私も夫人も感謝の念を新たにしたことである。

今後、總持寺祖院管理である墓地に埋葬される。亀山墓地と言われるその墓域は興禅寺の目の前にある小高い山で、山門と總持寺通りを挟んでの向こう側に位置している。これからは毎日、お墓詣りもできるし、山門に立って遥拝もできる。勝手に墓守をさせて戴くつもりだ。

「方便現涅槃」という経文の一節がある。「方便して涅槃を現ず」と読む。法華経如来寿量品第十六の文。仏は常住不滅であるが、仏在世に生まれあうことの難しさを示し、また仏に対する恋慕渇仰の心を起こさせるために方便として涅槃に入るとの意。
又は、仏の寿命は限りがなく、死ぬことは有り得ないとされている。ところが仏が何時迄も生きていると思えば、安心して怠け心が起こり、もったいない、有り難いと言う気持ちも起きない者が出てくる。そうさせないように、嘘も方便、涅槃に入ったように見せた、と言う解釈。お釈迦様が亡くなられたのは「方便」であり、亡くなられたことで永遠の真理たる「涅槃」が「現成」するというもの。

「方便」とは何か?「現涅槃」とは何か?

「方便」とは「仮のモノ」というのが通念だが、仏法的には「余所見することもいらないそれそのものへの近道」である。ところで「仮のモノ」でないものがこの世にあるのか。すべては「仮和合」にして「空」なるものである。そしてそれはそのまま「実」にして「色」なるものであるというのが魔訶般若たる所以。

そういうことからすれば「方便」が「現涅槃」であるとも読める。或いは「方便即涅槃」とも「生死即涅槃」とも「方便即生死」と覚することができるだろう。生死のここを置いて涅槃を求める。それを迷いとか輪廻という。

ということで、板橋禅師の涅槃は私にとって師とま見えることのできる「方便現涅槃」という新たな機縁とななったのである。俗っぽく言えば「死んではじめて師匠は私だけのものになった」ということだ。

道は無窮である。生也全機現。死也全機現。いつも現涅槃という一如の世界にいる我らである。死して尚師匠と余所見せずにま見えることができる。一大事因縁の仏道たる所以である。合掌。






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「音」

雪しづるほかは音なき大伽藍

身を捩る欅大樹や冬さびて

冬鴎風待ち侘びてゐたるかな

賽銭の落つる音にも師走なる

十二月十六日も過ぎにけり

雪しぐれおつりを握り帰るさの

窓を打つ音にも雨の十二月

風冴ゆる音に籠るや間垣村

風と生き荒れし手のひら足の裏

しのび寄る老い紛れなき夜の寒さ

葛湯溶く音もかそけき夜更けかな



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「火の色」

雪中に火を点じたる青木の実

冬めいてしまへばそれでそれなりに

里山の雪に埋もれし冬菜かな

火の消ゆるかたちに眠るけものかな

北国に生まれ寒がり餅が好き

侘助や面影忘れ難くして
消えさうで消えぬ火の色冬椿
雪の上に山茶花紅を散らしけり
父母のなくて幾年手足荒れ
皸の血を吹く風の夜なりけり
熱燗に火のつくお国訛りかな




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