「行」に生きる

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鉄鉢の向かうに続く雪の山 玉宗

今年の寒の入りは五日。昭和六十二年に永福寺に入って以来続けている一人での寒行托鉢。先代住職は還暦を過ぎて辞めたということだが、私は還暦を五年過ぎても辞める気配がない。夫人には年金を貰うようになったら辞めようかなと言っていたのだが、貧しいお寺のお陰で托鉢も生涯現役でやり続けることになりそうだ。

それにしても最近とみに体力の衰えというか変質を実感している。高めの血圧が続いて薬を服用するようになったし、膝の痛みで長い時間の正座が苦痛になりだした。目も霞むし、入歯になって二年目となり洗浄剤が欠かせない日常になってしまった。鏡を覗いてみれば紅顔いずくにか去りにしで、往時の瑞々しさが紛れもなく影を潜めている。頭髪を剃っている僧形ということで実年齢よりは若く見られているようだが、若く見られても実際のところは何のメリットもない。

然し、「歩く」ことや「俳句を作る」ことに関してはまだ「衰え」を感じてはいない。そうではあるが「老い」や「病」の実相に目をそらしてはならないと思っている。私が認知しなくても体力知力共に下降線を辿っている真っ最中であるにはちがいない。「生老病死」は生きることの前提である。諸法の実相なるを如実に受け入れて、それをわがものとして越えていくことが仏道でもあろうかと思っている。

今頃になって、これまでの生き方がどこか無理をしていたのだろうかと思ったりもする。歪んではいなかったか。偏ってはいなかったか。人様には、無理なく、欲張らず、ありのままに、自然に生きることを求めながら、わたしは仏法を欲張ってはいないだろうか。というか、正確に言えば、仏法のために仏法を修していただろうかということだ。修行が行き詰まるという事はありえない。行き詰っているのはそれが本来のあるべき修行ではないからだ。

「行」に引っ張られ、「行」に宥められ、「行」に透かされ、「行」に励まされ、「行」に叱られ、「行」に韜晦し、「行」に出世し、「行」に帰り、「行」に再生し、「行」に救われる。「行」の真っ只中のわたし。「行」の真っ只中での日々是好日。それが仏弟子の面目であろう。
そして、私という出来損ないの人生もまた、出来損ないなりに「行」に引っ張られて今、ここにあるのだろうと思ったりしている。

仏弟子であることが特別なことであるとは思っていない。全うな人生を送る一つの手立てとして仏道もまたわが手中にある。「行」のかたちや機縁、機会、時期には様々な意匠が世の中にはある。そのどれもこれもが自己再生の手立てでもあろう。欲望は欲望を越えたがっている。煩悩は煩悩を越えたがっている。かたちはかたちを越えたがっている。「生老病死」は「生老病死「」を越えたがっている。「今」は「今」を越えたがっている。「行」とは「超える」ことと同義なのだ。それが真相ではないのかな。




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「おせち」
食うて寝て寝て食うて寝てもう五日
小寒のおせちを温め喰らひけり
共生きの妻の仕立てし雑煮かな
一粒の手間暇掛けし開豆
うち揃へ開牛蒡の土臭き
数の子を噛めばしよつぱい音がして
解けさうで解けぬ結び昆布にて
俵子のつるりと箸をこぼれたる
老いたればしゃぶるごまめの固さかな
据り鯛小ぶりながらも目出度さよ



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「托鉢」
托鉢の遠くの山も眠りをり
これよりの空のかたさよ水つ洟
托鉢に近道はなし雪もよひ
雪晴や首に垂れたる頭陀袋
托鉢のしんがりにして梅探す
諳んずる般若心経息白し
托鉢の銭も手足もしばれけり
人の世を憚り生きて悴める
托鉢の列ゆく里の冬田べり
寒に入る鉦や太鼓や南無阿弥陀
托鉢の向かうに冬の波がしら
鈴の音が吹雪の中へ消えゆけり
托鉢の笠に窺ふ松の内
悴める指もてかける鞐かな
托鉢の笠打つ霰礫かな



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