無心に遊ぶ

IMG_1366.JPG


福笑ひ笑へぬ顔となりにけり 玉宗

 М1とかいう漫才を競う催しで優勝したなんとかという二人組の演技が漫才であるのかないのかといったその後の社会の反応が取り沙汰されている。漫才の定義があるのかないか、あるようでないようなことを云う識者や当事者もいたりして、問題があるとしたら那辺にあるのかないのか。どうでもいいような話ではあるが、その本質を考えているうちに、そう簡単に看過できる内容でもないと思われるのでご批判を覚悟の上で少し駄弁を弄してみようか。

 漫才が「芸」であることにだれも異論はないだろう。今回の場合でも「しゃべくり漫才」という視点があるように漫才が「ことばのやり取り」の面白さにその醍醐味があることは否定できないだろう。ところで、「ことば」と言えば「ボデーランゲージ」という表現ツールがあることは知らぬ者はいなかろう。しゃべくり漫才というものにあっても、その実際の現場では口から先の言葉だけではなく、口八丁手八丁だけではなく体まるごとを使ってランゲージに寄与しているに違いない。

そんなことよりなにより、もっと大事な視点があるのじゃないかな。

 それは「面白さの本質」といったような問題だ。漫才だけの「面白さ」に通底するものではないのだが、例えばコント55号が世に出て来た時の衝撃といっては当たらないかもしれないが、あれが漫才ではなく「コント」という枠組みの「芸」であると当初から認知されていたのかどうか承知してはいないし、コントがいつからどのような区別化をされてきたのかも知らないで言うのであるが、コント55号の「芸の面白さ」に目を見張り腹を抱えて笑ったことは否めない。あの「面白さ」と同時に「面白さへの反応」は何だったのだろうかと思う訳である。

そろそろ結論を言えば、わたしはそれは「無心な芸の面白さ」であり、「無心な芸の面白さへの反応・笑い」であったと思うのである。「無心なる漫才」「無心なる芸」私共が共感するのは芸人の「無心さ」「一生懸命は言うに及ばぬ「無心さ」がそこにあるからだろう。
そういうことからすれば、今回のМ1の勝者には確かに後先考えない向う見ずともいえる一生懸命な無心さが生々しく感じられた。だから面白かったし、笑えたのである。

人の好みもあろうし、私も所謂「しゃべくり漫才」は嫌いではないが、いずれにしても「臭い芸」は好まない。芸を鼻に掛けるとでもいうか。悟りの悟り臭きは真の悟りに非ずとも言われる。要するに「無心」ではない「自我の残滓」があるのだ。見ている方もそのような「似非芸」には微妙に、そしてダイレクトに体が反応するものだ。

 さて、そういうことからして漫才だけではなく、そのような反応はあらゆる芸事や自己表現にも言及できる真相ではないかと思う訳である。俳句文芸にあっても然り。凡そ自己表現にあっては「無心」であるかどうかが「本物」であることの真偽を担保できる条件ではないのかな。  

 今回のМ1王者が道の途中であるかどうか。私には分からないというより、道は無窮である。日々是更新して無心をわがものとしてこそ、その道のプロともなるだろうし、漫才師にあっては真の笑いを勝ち取ることであろう。

 道は違うが、それは仏弟子という自己表現にあっても例外ではない。真の無心をわがものとして生きてこそ真の信仰に生きることが叶う。そのような一大事を教えてくれた今回のМ1王者騒動ではあった次第。




IMG_1254.JPG


「日に一度」
雪掻いて褒めてくれるはポチばかり
竹馬の高さを兄と競ひけり
いたいけな妹を乗せ橇を曳く
樏を穿いて麓へ酒買ひに
日に一度海を見にゆく頬被
堅気とは思へぬ叔父の褞袍かな
着膨れてゐても金には抜け目なく
風に乗り寒行僧の来たりけり
お開きの成人式に出くはせる
嬉しさか淋しさか母毛糸編む
雪已みし深き夜空を仰ぐかな



IMG_4701.JPG



「子」
よく眠る山に仏弟子籠りけり
墓石の雪をのけてや仏の日
買物に子の手を借りる女正月
下したる松を焚火にくべにけり
水洟やここにも一人仏の子
どんど火の山を蜜柑の転げ落ち
風の子と雪の子いづれ都鳥
繭玉のあかるき部屋に泣きに来る
雪国の頬つぺた赤き布子かな
隙間風親を失くしてこの方の
どこの子と知らねど氷柱欲しがりぬ
雪止んで皸疼く夜なりけり





この記事へのコメント