新到さん、いらっしゃ~い!/その3・挨拶を覚える




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僧となる不思議な月日朧にも 玉宗


 明日がない筈の旦過寮での生活も何日か続き、それにも慣れてきた頃、突然、古参和尚から次のような事を告げられる。

「明日、入堂するぞ」

「入堂」とは坐禅堂に入ることである。暫到の間は「外単」と呼ばれる堂の外側で坐禅をしていたのだが、入堂すると自分の坐る場所が畳一枚分ではあるが「内単」に設けられ、名札も掛けてもらえるし、そこで寝食をすることになる。畳一枚ではるが、自分の天地が与えられた嬉しさ。

ということで、そんな目出度い明日のために「入堂の拝」の練習をする。いよいよ正式に安居することを認められることになる。なんだかんだ言っても「お客さん気分」だった旦過寮の日々が懐かしい。一週間前に山門頭に立ったことも随分昔のことのようの回想したりする。世話をしてくれた古参和尚のため口も、何だか親近感めいて懐かしい。高ぶる胸を押えながら、明日の遠足を夢見る子供のように枕を深くして無理やり眠りに就くのである。

 当日は坐禅堂に知客和尚に先導されて中へ入る。先輩僧たちが居並ぶ前を腰を低くしてひとめぐり。維那老師の公報を受けてめでたく儀式は終る。感激の一瞬であるが、これが意外とあっけない。このあっけなさが落し穴。これからが筋金入りの修行の日々となる。衆寮へ戻ると休む間もなく、古参に呼びつけられる。

「おい、ついてこい」
「はい!」
「はいじゃないだろ」
「ごくろうさまです!」

「どうぞよろしゅう」「おつかれさまです」「ごくろうさまです」この三大用語を駆使出来れば僧堂で生きてゆくのに困らない。(かもしれない)

さて、「入堂の拝」を終えた新到さん、古参和尚に連れられて各寮へ「挨拶まわり」をすることになる。僧堂によって相違があるだろうが、知殿寮、維那寮、単頭寮、後堂寮、住持寮、最後に衆寮。そのつど、自分の名前、師寮寺の名、等を自己申告させられる。

例えば、

「石川県第八十六番、興禅寺徒弟市堀玉宗 どうぞよろしゅう」

それに対して、各寮では一言づつ、「お言葉」や「励まし」を頂戴することがある。
三ヶ月間は禁足といって、試用期間みたいなもので、本物の初心が試される。禁足期間中は原則として、実家、否、師寮寺へ帰ることは許されない。この三ヶ月間で、基本的にして超人的な量の「覚書き」を書かされ、暗記し、身につけなければならない。

鐘の搗き方、経典の暗記、鳴らし物や進退作法の習熟、等など。悟っているか否か、などという中身より、先ずはなにより「かたち」を習い、覚え、身につけさせる。坐禅と同じ内実であることに気づこうが気づくまいが、今は大した問題ではない、みたいな有無を言わせない所業に振り回される。

「そんな、御無体な・・」

僧堂はやる気のある者が山門を潜って来るという善意から始まっている。初心の中での弁道たる所以である。
もっと人間扱いしろ、なんていう被害妄想も、いつの間にか、自己の心を労さなくてすむ勿体なさに変わってゆくのである。自我なんていうものは、あっても無くても、なんともない世界を垣間見ることとなる。発心正しからざれば万行空しいとも云われる所以でもあろう。

「ごくろうさまです!」
「どうぞよろしゅう」
「おつかれさまです」

この挨拶が何の違和感もなく口を衝いて出るころには、如何にも雲水然たる面構えになっているものだ。がんばれ、新到さん!



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「望郷」
望郷は果てなし鳥は雲に入り
ふるさとを離れしよりの春愁ひ
白鳥帰る北の地生家跡もなし
開拓の夢に生きたる木の芽かな
穴出でし親父うろつく裏の山
ピリカなる浜にうち寄す春鰯
麦踏やカインの裔の影を曳き
棒鱈も石の固さとなる故郷
海明けの流氷軋む夜なりけり
僧となり他郷に仰ぐ朧月


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「また一つ」
また一つ妻の老いゆく雛かな
先を急ぐ水の行方や魚は氷に
上京の荷物に添へし干鱈かな
腑に落ちぬいちご大福春愁ひ
足を引く水の勢ひや獺の祭
うれしたのし春一番のランドセル
うすらひや心もとなき旅立ちの
海を渡る夢もまぼろし桜貝
潮引いて慌てふためくごうなかな
しやうがない顔して恋の猫がゆく


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