足の裏で考える



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犬ふぐり徒食の影がたもとほる 玉宗

前大本山總持寺貫首・板橋興宗禅師が金沢大乗寺住職であった頃、本堂の露柱に「足の裏で考える」という貼り紙があった。マッサージ業界のコピーではない。仏道が命の実感・身心学道に参究することに尽きるという禅師様ならではの修行者への指南であると受け止めたい。
 
われわれは「あたま」が人間の特権であり、他に換え難い能力であると思っている。頭の回転によって描かれた世界が文明を構築したことを否定する気もないが、人類始まって以来の苦しみや迷いや愚かさも又、その「あたま」の能力のなせる所業であるのが悩ましいところ。考えたり、言葉にしたり、分別したり、苦悩したり、様々な「思い」以前に、息を吸って吐いて、ものが見え、聞こえ、触れて、味わって、世界に反応している命の事実がある。世界と一体になることが修行の眼目であるとは、言い方を変えるならば、本来的に世界と一体であることに気づくことが求められているだろう。

そこにはどうしても「自己を忘ずる」という「分別」の放擲、棚上げ作業が不可欠なとなる。「あたま」世界だけが命の全分ではないということ。先ず、生きている命の事実があり、私の言葉、私の考え、というようなものは後からの説明に過ぎない。説明や分別が悪いというのではなく、その「分別」が「先走ったり、後追いする癖」が私の世界を狭小なものにしているのではないかという反省がある。「わたし」といった「括り」は「あたまの所産」であり、それが諸悪諸善の根源ともなろう。
 
人間は迷いたがる動物でもあると言いたくなるような「あたま」を持っている。考え、悩める頭の世界を持った分だけ命が宙に浮いているといってもよい現実があろう。それを「妄想世界」とは言いたい。「あたま」が人類の懸命さであり愚かさであることを歴史が証明している。「うまく考える」に越したことはなかろうと、人はまた「あたま」を使いはじめる。「うまくとは?」といった具合である。

板橋禅師様は「息をしているこの事実、これを仏という」とまで仰る。「それ以外のどこにも有難いものなどありはしない」のだとも。「なんともない、この事実に気づき、立ち返ること」を仏道とは言うのだと。「足の裏で考える」とは、この端的にして、具体的な命の事実を実感し、生きるバネとし、柱とし、力とせよ、ということではないのか。実際のところは「足の裏」は考えない。そこにはいのちの実感があるだけである。今のいのちの事実、「一体」があるのみ。それこそがぶれない人生を送るコツであると仰っているのである。私はそう思っている。



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「味」
蹼も鬣もなき涅槃かな
大概のことは恕せる春の風
猫の恋味も素つ気もなき貌で
忘れ去ることの幸ひあたたかし
思ひ出すことの痛さよ春寒く
蕗味噌の悪い気はせぬ味なりし
わたくしにバレンタインと言はれても
鳥雲に托鉢僧の足に肉刺
亀鳴くや食はず嫌ひの顔をして
目刺焼く味な顔せし男かな
朧なるままに酒酌む夜なりけり


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「おくりびと」
料峭の閼伽に仕へし目覚めかな
春霜や死出の旅路の朝ぼらけ
侘助の風に傷みし別れかな
残雪の山越えて来るおくりびと
藪つばき谷底に身を捨つるべく
面影に寄り添うてゐてあたたかし
死ぬる世を送り送られ霞みたる
生きてゆく泪鹹きも如月の
人を焼く山に雪割草の咲く
亡骸の胸に落ちたる椿かと
死してなほまなこみひらくおぼろかな

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