寄り添いという間の取り方

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菜の花に吹く風だれも咎めざる 玉宗

先日、ある婦人が家庭内の事で相談にのってほしいとやってきた。
ギクシャクした嫁姑のこと。自分勝手な姑とそんな母親に育てられた我儘な夫への失望を語っていった。精一杯家族のために身を尽くしているのに分かってもらえないことからへの絶望感。子供がいることでなんとか自分も外で働きながら、嫁いだ先の家に姑と一緒に暮らしている。これまで一度だけ子供を置いて家を出たこともあったが、気を取り直して帰ってきたのだという。本人の性格を観察した上で割り引いて考えても、それなりに随分と気苦労が多かったことがよくわかった。

然し、最後には、
「私自身や家に何か悪いものでも憑りついているのでしょうか?」と言い出した。お寺に求めるものが那辺にあるのか窺い知れる。ことここに至って、私は仏道の生き方を言って聞かせない訳にはいかなかった。

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「寄り添い」という言葉をよく見もし聞きもする。私自身も何気なく多用している言葉である。言うまでもなく社会には様々な「寄り添い」のかたちがある。夫婦、家族、地域社会、国家、自然、そして忘れてはならない私自身に於ける「寄り添い」の問題がある。結論を言えば、それこそが一大事であり、問題解決の根本である。

仏道は医療や政治、経済とは領域を異にすることは言うまでもない。謂わば、私自身にある「欲望」との「寄り添い」「間の取り方」といったもののことである。決着のついた間の取り方。それを身心を尽くして学ぶ。又、「縁」は決して自己満足という狭い世界へ誘うための天の采配ではない。「縁」があって夫婦、家族となったということは自己を学び、人生を学ぶ機会を授かったということである。

本来的に清浄なるいのちを生きている自己である。そのような存在である自己に寄り添うことができなくて、どうして他者に寄り添う事ができるだろう。自己の欲望との間合いを取ることができなくて、どうして社会に寄り添う事ができるだろう。といった極めて正当な理由が前提としてある。自律も自戒もその上での話しである。

他者と争わないのではない。争う理由が本来的にないということ。家庭内に於ける不和の根本には「本末転倒の寄り添い」がある。或いは、「執着という間の取り方」がある。自己に決着がついていないところからは、自分の意にそわない相手への呪詛や恨み、愚痴の無限地獄があるばかりだろう。

人を変えようとするのがそもそもの間違いである。自己が変わらなければ永遠に世界は変わらない。執着を離れて、空っぽにならなければ何も入ってこない。相手が身構えるだけである。鏡のようなまっさらなこころでなければ何も映りはしない。闇の世界があるばかりだ。それもこれも自己の真相への寄り添い方の問題である。自己の真相を知ることこそが先決あり、そこからしか柔軟にして強靭なこころは育ちはしないだろう。

それにしても、仏弟子として迷える人へ寄り添うことができているのかどうか。改めて自問自答させて貰った訪問者とのひとときではあった。合掌。



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「四月来る」
餡パンに花の臍あり万愚節
終りなきわが旅心麦青み
何待つとなけれど燕来るころぞ
蟻出でて李の花のてつぺんに
遠嶺の雪形も消え梨の花
四月来る親と別れてこの方の
はくれんの今しひとひら剥がれむと
太陽の水田に遊ぶ蛙の子
菜の花や川面にゆらぐ日の光り
咲き満てる花の翳りや三鬼の忌
折れさうなこころに風の木の芽かな
春の夜を唸る夜更けの冷蔵庫



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「永き日」
吹く風を潮騒と聞くさくらかな
花冷や弁当箱を洗ふとき
寄り添うて一塊の黄水仙
春夕焼杉山に燃え移るかに
泥煙り漸く沈み蜷の道
花びらをさざ波立てゝ光る風
太古よりをみな謎めく桃の花
どどどどと土竜がゆくよ永き日を
花吹雪骨を納めて帰るとき
ぽんぽんと木魚のかたち葱坊主
鶏が逃げ出す朧月夜かな

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