花のいのち




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囀りやほとけ生まれて来たる日の 玉宗

能登の春は冬のイメージと打って変って花が咲き競って明るいものです。
ひと月遅れとなりますが五月の風薫る花のかんばせに囲まれての花祭り。お釈迦様の誕生に相応しいと感じるのは日本と云う四季豊かな仏教国ならではの感慨でしょうか。

「降誕会」は生れ合わせたいのちの奇蹟に思いを馳せ、いのちの尊さを花の輝きになぞらえています。それはそれで相応しい事だとは思うのですが、さて植物にとって開花とは実を結ぶ為の一段階に過ぎません。

植物のいのちとは種が地に落ち、芽を出し、花を開き、実を結び、枯れて、地に還り、再生をくり返す循環を身上としています。人のいのちも、花のいのちも、虫のいのちも、そのような循環の只中での一期一会です。

「天上天下唯我独尊」とは誕生仏の獅子口一聲、一大事因縁の宣言と言ってよいものです。
「降誕会」はいのちの奇跡、尊さ、かけがえのなさに目覚め、その尊さをわが身わが心に引き受けて今を生きることを期しての法要です。そのような信仰の対象は老若男女を問うてはいません。共に一大事因縁の今を戴いて生き死にしています。

命の尊さ、それは生老病死その時その時の時節因縁の尊さであり、子供の命だけが尊いのではなく、老いている今も、病の今も、死んでいこうとしている今も、清濁併せて、ピンからキリまで、猫も杓子も、山河大地も、死も、生も、すべていのちの尊さ、絶対性、無常心、仏性の様子に変りはないものです。

娑婆世界に生れて来た尊い因縁ではありますが、人生は生れて来ただけで済まされません。そのときその時のいのちの花が咲きます。咲いています。それに目を瞑ってはいませんか。耳を塞いではいませんか。

全てが等しく尊いのです。自己の脚下に明らかなるものです。卑下も慢心も必要ありません。括目し、耳を濯がなければならない所以です。いのち大事に。合掌。

( 法話集『両箇の月』より 〉





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「いつ」
木瓜咲いて悪い気はせぬ日なりけり
いつひらく椿の蕾数知れず
噴き零すやうにも枝垂れ雪柳
いつよりの世離れしたるさくらかな
春蘭の薄衣今し脱ぐところ
手付かずの空がまだある春田かな
いつになく遠くへ鳥は雲に入り
一花草みちに迷はぬやうに咲く
言はなくていいことばかり花曇
いつの間に貝母は花と俯いて



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「望郷・二十句」
しかたねえ男がひとり春の夢
雪国の空はじょっぱり花林檎
松前は鰊曇りと聞くばかり
海峡を渡りし裔ぞ畑を打つ
馬鈴薯を植うる大地の果てまでも
鰯寄す磯に遊びし春休み
遠足を戻れば母が納屋にゐて
北窓を開きべこ餅炙りけり
穴出でし熊を親父と畏れけり
出稼ぎも戻る白鳥帰るころ
夫婦舟そのまま若布刈舟なりし
駒ヶ岳裾なだらかに霞みけり
どんげどんげ思ひ出甘く酸つぱくて
逃水や家出を夢に見し頃の
北国の春は一気に花とひらき
棒鱈を浜の石もて叩きけり
浦巡る汽車の窓より鰊東風
函館の朧に濡れし夜景かな
春を恋ふわれに蝦夷の血が流れ
鳥曇り故郷帰る由もなし

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