總持寺二祖峨山韶碩大和尚 




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瑩山紹瑾禅師の後を継がれた諸嶽山總持寺第二代大現宗猷國師峨山韶碩大和尚は、建治2年(1276)宝達山南麓河合谷村・能登国羽咋郡瓜生田・現石川県河北郡津幡町瓜生大泉庄、押水大海荘に生誕されました。父方は源氏、母方は冷泉家(藤原北家)とされています。

11歳にして教院に身を寄せ、16歳正応四年比叡山延暦寺に上り菩薩戒を受けました。

瓜生の地は源平合戦の倶利伽羅峠に近いことから、合戦に破れた平家の武将がその祖ではないかという指摘もあります。母は信仰心篤く、文殊菩薩・千手観音に祈願し、利剣を呑む霊夢があって懐妊されました。禅師幼少の頃のお姿は「風貌清奇、気宇超邁」と伝えられています。 

母の指示で天台の宗要を研鑽し、永仁五年(1297)瑩山禅師を訪ねられその奥義に触れられました。その後、比叡山を出られて、正安元年(1299) 大乗寺にて瑩山禅師と再見し、そのまま禅師へ帰投されました。

正安三年(1301年)、師匠である瑩山禅師から「両箇の月」という公案(悟りを証明するための機縁)を与えられました。
「両箇の月」とは私共を内からも外からも一体となって照らす、遠くて近い「いのちのかがやき」そのもののことです。徳治元年(1306年)に大悟され、瑩山禅師から印可証明を受けられました。 その後、師の命により諸方遍歴。今の韓国、そして中国へも渡り勉学に励み、能州へ帰りました。

瑩山禅師に従って永光寺に移ってから四年を経た元亨元年(1321年)瑩山禅師の法を嗣ぎ、洞谷山永光寺妙荘厳院において「戒脈」及び『仏祖正伝菩薩戒作法』一巻を受け、永光寺首座に任じられ、説法を行っています。

正中元年(1324年)、永光寺首座・修行僧の第一座として大衆20名とともに、總持寺僧堂開堂式のため總持寺へ出向きます。このとき瑩山禅師より總持寺住職を任せられました。暦応三年(1340年)、永光寺住職を兼任することとなり、入寂するまで20余年にわたって両寺を往還しながら全国に教線を拡大していったのです。峨山道の伝説が生まれた時です。

貞治2年(1363年)、三たび永光寺住職となり、貞治三年(1364)永光寺に輪住制を置いた先師瑩山禅師にならい總持寺を輪住寺と定めました。總持寺住職の取り決めを定め、選ばれた弟子たちに教えを示しました。こうして峨山禅師は40年以上にわたって曹洞宗発展の基礎を築き、貞治5年(1366年)、91歳で遷化されました。

「合成皮肉 九十一年 夜来依旧 身横黄泉 」

ここには歴代祖師がそうであったように、生死を逍遥と担い来り担い去ろうとしている境地がありましょう。両箇の月という大きな世界に抱かれて黄泉に旅立とうとしている平常心を身をもって示されたのでした。 〈 法話集『両箇の月』より 〉




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「中に」
面影に桜蘂降るばかりにて
春愁が松ぼっくりを蹴飛ばしぬ
ぶらんこの背中をそつと押し出しぬ
チューリップ頭良くても悪くても
高原の空はまあるい土筆かな
猫の子の涙目となる大欠伸
その中に古りし学び舎花の雲
群れ咲いて一人静の喧しき
さみどりの水輪とひらく春の蕗
初蝶の探しあぐねて来たりけり
一年生見送る母へ手を振れる
塗り終へし畦の中より鳴く蛙
今生は別れの世なり蜷の道
放課後の空は傾れて飛ぶ燕



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「それどころ」
つばめつばめそれどころではなきつばめ
野に遊ぶさても口惜しき世なりけり
蹲る火の恋しさよ花曇り
花海棠くれなゐうすき色重ね
二の足を踏むべくありぬ春落葉
わが庵はぺんぺん草のさ中にて
頂上を巡る星の座水芭蕉
ひとの道けもの道山すみれかな
蕗の葉や子の手のひらの大きさの
碇草滝の飛沫にふるへたる
北前の湊も古りし山桜

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