有縁無縁に囲まれて



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宵を撞く鐘の音にも遅き日の 玉宗

檀家ではないのだが、近所で生活保護を受けていた一人暮らしの女性が亡くなった。
親戚筋に連絡も取れなかったらしく、数日経って故人と近所付き合いしていた方がお寺を訪ねて来た。事の成り行きで喪主という立場になり、亡くなったその日に市役所の所員立ち合いで火葬に付した。お骨になったので暫くお寺で預かってくれないかと云う。世話をした方も、自分のお寺に申し出ることもなく私のところにやってきた訳である。

言ってみれば無縁仏なのであるが、永福寺には時々訳ありのお勤めさせて戴くことがある。それにしても今回のような事例は初めてのこと。詳細を聞けば葬儀もしていないとのこと。中陰の功徳を積むべき遺族もいないらしく、近所の誼で件の主人が出来る限りの後始末をしているらしい。無縁社会、無葬儀、生活保護・・社会の変容、歪、その人生模様が如実に反映されている。そこには都会も田舎もない。

然し、このような社会現象は現代に特有のものではあるまいとも思う。昔の方が余程「無縁仏」に巡り合っていた厳しい現実であっただろう。本来「無」も「有」も「縁」の様子である。問題なのは、そのような社会の無常にして無情なる様子と共に、「無縁仏」を供養してあげようといった人間がいたかどうかということ。それはお坊さんの役割であろうと云われればそうでもあろうが。

いずれにしても無縁仏を供養させて戴くのも私の因縁である。それは受け入れるのに吝かではないが、このような事例に対応できるように無縁塔なり、納骨堂なりを施設しておかなければならないと考えさせられた。言いかえれば、このような社会の現実に疎かった自分の世間知らずに気付かされたことでもあった。もしかしたら、現代の無縁社会、無縁仏、無宗教云々の騒ぎはお金にならぬお経は読まぬお坊さんを糾弾し、覚醒させようという声なのかもしれない。無縁、有縁に囲まれて生きている自己である。有無に拘らず真心を尽くすようなお坊さんではありたいと思っている。 〈 エッセイ集『拝啓、良寛さま』より 〉




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「〼」
啄木忌わが手に老いの紛れなし
総代が仔猫貰うてくれぬかと
開け放つ窓より落花舞ひ込みぬ
花筏都を沖とせし国の
被爆せし国の泥田に鳴く田螺
黙々と土蔵古りゆく竹の秋
野遊びの茣蓙敷くマネの木漏れ日に
寺に貼り紙裏で竹の子掘つて〼
大人になる手ほどき恋のクローバー
嫌はれて葱も坊主となりにけり



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「固」
桜餅少し固いが食へぬことはない
人のみち少し逸れたる菫かな
紫木蓮散るやひとひら襟落し
機嫌直して草餅固くならぬうち
奥能登のその又奥へ目を借りに
鳥雲にガラガラ回る魔荷車
固いこと言はず大根も花となり
たんぽぽや毎日が日曜日なら
又の名を馬糞雲丹とぞ申しける
生き延びて婆蛤のいや固き



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