魚の貌・人間の顔・仏の相



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子を攫ふ顔し風船売る男 玉宗

 嘗て、俳人・加藤楸邨は魚の貌が真面目であることに感心しているような文章を書いていた。魚の顔の真面目さに比べて、人間は少し真面目さが足りないのではないか。つまり、それは真摯に生きる姿勢の不徹底さを衝いているのであろう。如何にも人間探求派と呼ばれ、真実感合を唱えた楸邨の面目躍如たる逸話である。

そう指摘されてみれば確かに魚の貌には隙がないように見える。人間は何故こんなに不真面目な、隙だらけの、腑抜けな、魂の籠らない顔になってしまったのか?それは自然を生き延びることの競争を克服した証しなのだろうか?神様を殺してしまったものの油断・傲慢さの表れなのか?

いづれにしても現代人の顔の緩さ、そして一方には病的なまでの顔の強張りというものは、脳の異常なまでの進化と関係しているのではないだろうか。熾烈な生き死にの世界を本能だけで反応する魚と、よくも悪しくも、好むと好まざるも、脳というクッションを介する人間との違い。
 ところで、人間界に於いてもこの上なく真面目な、冒し難い、顔や姿に出会うことがある。例えば、デスマスク。何度も人様の死に顔を拝顔して枕経を挙げた。いつも心揺さぶられる思いをする。それは死への恐怖と云うようなものではなく、「死」という絶対的な事実を眼前にしてのどうしようもなさを突き付けられていることへの思考停止状態の如くである。

そして、例えば坐禅している姿もまた冒し難い尊厳さが光背のように漂っている。正確にいえば、それは顔ではなく体全体である。つまり、坐禅をしている姿「坐相」である。宿なし沢木興道老師が坐禅しているところを覗き見た村のおばあちゃん。思わず手を合わせて、「なんまいだぶ、なんまいだぶ、もったいねえ。」と、呟いた逸話は有名である。坐禅の姿にはどうも人間業を越えたところがあるらしい。

作法通り坐り、何もしていない坐禅の姿が何故、尊厳さを発するのか?

実際にご覧になれば了解されると思われるのだが、それは恐らく「いのちそのまんま」の在り様が其処に只、在るばかりだからであろう。「脳」の弛緩剤も、興奮剤も介在しない、いのちありのままに、只、其処に、今、在るばかりという事実の冒し難さ、というもの。それはある意味で「魚の貌」の真面目さに似ているのかもしれない。

といっても、それは井の中の蛙が大海を見ざるが如き「隙のなさ」というようなものではなく、水が方円の器に随うが如く構える事のない「隙のなさ」というようなものである。水深くして波平らかなるがごとき、内に充実したものをもった豊かな表情がある。
肩書も評価も思想も人情も棚上げにした「いのちそのもの」があるばかりであることの絶対性。深さ、豊かさ。仏弟子にとって坐禅が生きる基本である所以である。

そして、命そのものの尊厳さに魚や亀や草木や人間の上下はないだろう。
人間の「脳」という特権、それは反転反作用して「凶器」となった。人類は未だにその危うさを肝に銘じてはいないように見えてならない。人類はもっともっと謙虚になり、自然と云う鏡の中で、その自惚れた、不真面目な、隙だらけの顔を点検してみるがいい。




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「親父」
あんな親父にそれは可愛い花くわりん
妻恋のおろおろ歩く雉子かな
鶯の聊かふざけ過ぎかとも
花冷や親父ギャグとは哀れなる
煎餅とお茶と俳句と囀りと
蜂が来て満天星躑躅鳴らしゆく
故郷は親父も穴を出でし頃
騙されて悪い気はせぬ花苺
老いたるか筍飯を三杯食へぬ
風船売るあれがお前の親父だよ
四の五の言はず光れる風を写生せよ



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「たつぷり」
朝寝することも叶はず僧たりし
気も早く四月半ばに鯉幟 
旅立ちて桜蘂降る町に生き
八重桜たつぷり雨にずぶ濡れて
花鳥のひとひら零し翔ち去りぬ
羊毛を刈られ寒々してゐたる
鴉来てゴミを漁れり菜種梅雨
乙女さぶ妻を先立て野に遊ぶ
春蘭の今しもろ肌脱ぐところ
花に老い花に疲れしゆふべかな

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