実物を生きる
暮れてゆく波の音にも晩夏なる 玉宗
「経典は月を指差す方便」に過ぎないということが云われる。「経典」は「月」という「実物そのもの」ではない。言葉の世界の話、つまり「説明」である。「月」に譬えられる「真実・悟り・本物・実物」の世界の説明、又は行くべき方向性、又は歩き方の指南書みたいなものであろう。たとえ言い尽しているとも、どこまでも「そのもの」ではない事は明白である。
言葉の世界は「観念・思い・想念」の世界と言い換えてもいいだろう。「月」でもなんでも、眼前にあるものを見たり、聞いたり、味わったり、触れたり、嗅いだり、感じていたりしている「今」という命まっさらな事実があるという前提がある。「前提」と言わなければならないのは、言葉以後の展開が言葉で捉えた範囲を越えていることが余りに多く、私の思い込みや都合を介しない「実相」があるに違いないと経験的にも肯かされるし、先人も又そうであると諭している。又、行き詰った折などは、予想外であってほしいと願ったりしている始末である。
ところで、「言葉」に左右され「実物」を逸れたり逸れなかったりする私の「全貌・総体」こそを「私」というべきではないのかという疑念もある。「実物」に「本物・偽物」論議は無意味ではないかという声なき声も聞こえて来るのだ。それもこれも、「命」に於いて「迷い・覚醒・煩悩・」等の浮沈、出たり入ったり、現れたり消えたりするのは「実物」の自ずから然らしむるところではないのか、といった弁明もあろうというものではないか。平たく言えば、「煩悩」ひっくるめて、私の命の「実物」であるということ。「実物」を外れて生きている私、というのも一つの妄想に過ぎないのだろうかということである。かくほど左様に、実物論議は「論議」に止まって満足しようとする限り、実に取り留めのない排他的な、取捨選択的なものに成り下がる。
更に、わが煩悩も私の「実物」であるから「私主義」「自己中心主義」でいいのだという本覚落ち的生き方の選択されるのは想像に難くないが、仏道はそれで決着するにはなんか足りない、というか違うだろうという思いもある。私という「実物」と他・外という「実物」の関わり方が再構築されなければならないのではないか。というより、それらを含めた全体が「実物の世界」の様子ということだろう。
「縁起の法」とはそれほど広大無辺で、無私で、無執着で、応用的であるということ。「実物」とは私が括っている以上に広大無辺で、あからさまで、あなた任せで、規格外の、空なる、問答無用で、教外別伝の代物であると言わざるを得ない。「一切」の「苦厄」は「皆空」にして「度」される所以である。それこそが「私という今の命の実物」であるだろう。そうでなければ凝り固まった自分持ちの悟りとか迷いを分別顔して生涯持ち歩く事になりかねない。
仏道は今生きている命の実物でなんぼのものだが、その「なんぼのもの」の真価は、「方便」も「そのもの」も活かしきった「究極の実物」が問われ、試されているということである。鼻もちならない、裸の王様的な実物に成り上がったり、成り下がったりせぬよう、まっすぐに歩むことは無為にして難行なる所以である。合掌。
「もらふ」
さうじやない西瓜はかぶりつくんだよ
草笛をもらふ見知らぬ小父さんに
昼寝せる何処の馬の骨ならむ
化粧せぬ母の手になる甜瓜
天道虫けふはどこまで飛んだやら
一本で足りる夏葱抜いて来い
素麺を冷やすざぶざぶ水扱き
もらひすぎて両手に余る茗荷の子
婿を貰ひし妻のこさへし焼き茄子
丑三つのか黒き水を盗みけり
はんざきに生まれ変はりてしまひけり
「暑」
朝焼けて暑に耐ふる日の始まりぬ
バタバタと反古なし槿散り敷ける
子雀の露地に遊べる土用かな
己が葉に梔子の花鎮もれる
てんと虫雲の峰より帰りしか
日盛りを来て棺の窓を覗くかな
鶏の首絞めにゆく炎天下
山ほどの薬抱へて虹潜る
垂乳根の愈々垂るゝ溽暑かな
水飯を息もつかずにざぶざぶと
風神の尻餅つきし青田かな
暮れてゆく波の音にも晩夏なる
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