仏戒に生きる
猿酒に酔うたる僧の奇声かと 玉宗
戒とは何か?
「仏戒とは大地有情同時成道と制止することなり」
戒とは単なる抑制ではない。仏法という命の話しであり、命の根っこからのなりゆきでなければならない。あれをしてはいけない、これをしてはいけない。ああしろ、こうしろ、といった倫理、道徳という人間界隈の次元で済まそうとしても決着できない欲望の始末の仕方がある。
根本からの決着を期している人間の智慧がある。世界と一体であるが故の無私。無私なるが故の一体世界。私とかあなたとかという我他彼此のないところ。執着や拘りのいらないいのちありのままの様子がある。
不殺生というもありのままの命には殺生に執着する理由がないのである。不妄語というも一体である命には嘘をつき人を騙す値がないのである。不戯論というも比べられない命には戯論する甲斐がないのである。
一事が万事、私の執着を越えたところで生きている今の命の事実がある。その端的に帰る。帰命。この目覚めを授戒とは言うのではないかな。
命に箍を嵌めることでも、嵌められることでもない。どこまでもわがいのちの解放、内外放寛への歩みであろう。
思えば、人間とはどれほど命を浪費し、無駄にしていることか。執着、無明といった足ることを知らない欲望。そのような欲望が人生の主人公になってはいないか。
私がいてもいなくてもなんともない、なにがあってもなんともない、欲望を越え誤魔化しの利かない、そうであるからこそののびやかないのちの世界。仏弟子とは本来そのような領域に身も心も委ねて生きているもののことである。
「懺悔・さんげ」とは罪を悔い改めることであるが、戒を授かるにあたって当然の事として戒を受けるべきこちら側のあり様が問われている。
仏道はありのままに生き生かされることには違いないのであるが、煩悩まるけのままでいい訳がない。自己という器に仏法を授かるには器がある程度空っぽであるに越したことはない。
理想的には底なしの空っぽ状態が望ましかろう。故に真の懺悔とは口先だけの話ではない。身と口と心からの自然な成り行きであるのが本来であろう。そのなりゆきとは、妄想や執着の実体の空なることの目覚めということ。本来空の実体に目覚めて生きる、それをしも仏道とは言いたい。
戒を授かる前提としての懺悔とは言うものの、それはあくまで理屈であって、その実際は授戒と懺悔は同時行である。どちらもいのちの目覚めの機縁を角度を違え、方便して語っているに過ぎない。懺悔した、授戒したといっても、いのちの実際に段階がある訳でもない。いのちはいつも全分的に躍動している。
得てして、私が懺悔した、私が戒を授かった、私が悟った、私が仏法を体現している、などという屋上屋を重ねるが如き見解の愚かさに堕しているのを見かける。というより、わたくし持ちの見解を持ち歩いていると言うべきか。これをしも、裸の王様、偶像崇拝とは言うのである。
仏道はどこまでもこだわりのない、ひろやかな命の地平を歩むものでありたい。冷暖自知とは命の真相、実体は誤魔化しの利かない世界を生きているということを語っていよう。
冷暖ばかりではない、迷悟も、生死も、凡そ二律背反する命の矛盾さ加減という代物は自己にしか解り得ないものであり、且つ、そうであるからこその救い、成仏なのであると言いたい。
そのような次第であってみれば、仏道とは自己究明以外の何ものでもない。自己を生きるのは自己のみ。この極めて当たり前な事実を私は逍遥と頂いていきているだろうか。この極めて絶対的な命の事実を知足して生きているのだろうかということだ。
自己の仏道の歩み具合を顧みた時、その余りにもお粗末な道行きに唖然とするのが常である。そのたびに何遍でも懺悔を繰り返す。仏の顔も三度までどころではない。生きている限り懺悔を繰り返しながら一歩でも仏道を進もうと心掛ける。それがそのまま、半端な私と言う人間の生きる意義、醍醐味となっている。
ところで、酤酒戒というのがある。以下のような解説がある。
「酒の売買を禁じた戒。十重禁戒の第五番目の戒であり、菩薩の波羅夷はらい罪である。不酤酒罪縁戒ふこしゅざいえんかいともいう。酒の売買を誰かに教えて、させることも禁止されている。酤酒は酒の売買を意味する語であり、また『瑜伽論』声聞地ではⓈpānāgāraの訳語として用いられている。菩薩に対して酒の販売を禁じ、また菩薩が他の人に対して酒の販売を勧めることを禁じるのは、酒が罪の原因を作るものだからと考えられている。すなわち、菩薩は人々に対して智慧を生じさせる存在であるのに、それに反して自身で酒を売り、また他の人にそれを売らせることは、人々の心を迷わせることにつながるゆえに波羅夷罪とされるのである。」
お気づきだろうか。ここにはお坊さんがお酒を呑んではいけないとは書かれていない。余談ではあるが、「私は今のところ酒がなくても一向に生きていける人間ではある。
因みに、「不許葷酒入山門」は「葷酒山門に入るを許さず」と読み習わしているが、「許さざるに葷酒山門に入る」というのが実際のところではないのかな。般若湯とも言ったりしてね。妄言多謝。( ´艸`)
「こうやつて」
鶏頭の篝火小振りながらにも
鬼灯の実を頬つぺたにひとつづつ
なんだつていふのかつくつくつく法師
甘藷掘りに呼んでくれよと念押され
稲架組みの余りし縄を燃やしけり
こうやつて西瓜の種は飛ばすのさ
溝萩の横の蒟蒻畑かな
よくみれば獣染みたるねこじやらし
どうやつて生きていこうか螻蛄の鳴く
赤とんぼ蒲の穂先にひと休み
大根ならとつくに植ゑてしまひけり
なんちやつて月に恋する尻尾かな
「つくづく」
椿の実色なき風に艶増せり
連なりて風船葛ほろほろと
存分に夕映え浴びし稲田かな
法師蝉わが身を洞と鳴り響き
知恵足りぬ青無花果の固さなる
蟷螂の途方に暮れて来たるかと
昼寝より覚めてつくづく秋ひとり
戦場を遥かに秋を耕せり
芒穂にものみな遠くなりゆけり
空はもう秋の風吹く百日紅
秋めくや虎杖の花錆びゆくも
藪枯らし蔓延るほかになかりけり
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