中道という生き方
わがことと慌てふためく道をしへ 玉宗
「中道」というお釈迦様以来の生き方があります。
「中道」とはどっちつかずの、いい加減さを勧めている訳ではありません。「的中」という言葉もあるように、まさに事に「あたる」、道に「中る」ということです。
仏道とは、偏らない命の戴き方を学ぶものです。いのちには命本来の智恵徳相が備わっています。生まれてからこの方、一度だっていのちは迷ったことがありません。わが思いを難なく超えて生老病死しています。六根清浄しています。喜怒哀楽しています。四苦八苦しています。因果歴然たるものです。
だれが諸行無常を否定できましょうか。だれが色即是空を否定できましょうか。だれが無私なる世界を否定できましょうか。すべては眼前の事実から学んでいる仏の道です。ありのままなる今をありのままに生きる。それが「中道」でありましょう。
そのような偏りのない命を戴いた人の世に、主義主張や理想を掲げて争う人間の現実があります。理想と現実に迷う社会があります。
あれかこれか、ああでもない、こうでもないという二見の価値観が狭い世界ではないことを願うばかりです。現実に偏るのでもなく、理想に固執するのでもなく、それらの二見を越えて、まさにあるべき道に中る世界が仏国土です。
生きている限り人は迷うに決まったものだとは、先人の言葉ですが、今も昔も、他を活かし自を活かす「中道」という偏らない人生の歩み、他人事では済まされない「仏の道」があります。
〈 法話集『両箇の月』より 〉
「雨」
秋風にわれは銭乞ふ男かな
秋海棠雨に滲みし紅のいろ
唖蝉の半狂乱にぶち当る
送り火を台無しにして夜の雨
ひんやりと控へてをはす生身魂
雨に鳴くひぐらし雨に鳴き止みぬ
手探りの冥土に鬼の灯を点し
丘なして雨に煙れる花煙草
咲いて散る底紅の夥しさよ
窓開けて秋の雨音聞く夜かな
秋めくやそれどころではないのだが
雨ながら鳴く虫草のしとど濡れ
「波」
冬瓜のごろんと八月十五日
お供物を波に引かせて送り盆
ふるさとをこよなく愛し踊るなり
托鉢のしんがりにしてねこじやらし
秋簾忘れ去られて久しかりけり
太陽の波打ち際に羽抜鶏
秋蝶の木漏れ日縫うて来りけり
墨染の袖に色なき風捌く
盆過ぎの波恐ろしや風立ちて
暮れ泥む裏の山よりかなかなと
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