『拝啓、良寛様』その207
「忍の徳、ってどうよ?!」
「忍」が修行の眼目であることは初心の頃から諭されてきた。何を、どうして、耐え忍ぶのか。或いは、我慢することがどのように私の本来の姿に叶うのかと疑問に感じたものだ。
僧堂では一日早く入山すれば年下の者でも古参、先輩として対す。あくまでもお坊さんとしての発心の遅速が問題ということであり、菩提心を起こすのに年功序列というものは加味されない。それはそれで理屈として容認できるのだが、生身の相手と付き合うとなるとギクシャクした、窮屈な関係が水面下でくり返されることがある。謂れのないタメ口や無理難題を課されることもある修行生活に逃げ出したくなる。それもこれも「わたし」という最後の砦にしがみつき、面子や体裁という世の常識に固く閉じこもっているからのこと。それじゃあ駄目じゃん、というのがお坊さんの生き方。
出世間は本質的に世渡りではないが、余に生き生かされているのも事実である。要するに、仏道というも人間関係の中で成し遂げられている。
一般の社会でもある情緒的不安定な人間関係だけではなく、仏弟子としての規律ある日常そのものの在り様にも、自由気儘、放辣に生きて来た者には辛抱溜まらん生活が展開されている。それでも「忍」を行じなければならない修行の「謂れ」が自己の落着の為ということを諦めるのに多少年季が掛ったものだ。私という偶像を後生大事に持ち歩くことがどんなに無駄なことであることか。急がば回れ。「忍」は「我慢する」ことではない。「我」を張る理由がないというだけのこと。
よく見れば「忍」の字は「心」の上に「刃」が載っている。「貪瞋痴」の三毒は自他を損なうことを肝に銘じて心に隙のない状態を保つということであろうか。三毒は両刃の刃である。「我」を折るのではなく、「我」が無いことが諸法の真相であり、拘るべき自分持ちの世界がなければあ、すべてが自己の世界であるという嘘のような本当の話、実相。それこそが自己を自己たらしめている。放辣ではなく強制でもなく、自ずからなる身心を律した生き方、というか身心に律せられ生き方方が求められている所以でもあろう。
自在に生きるには「わたし」への執着を越えなければならない。越えるとはどういうことか。無為自然という生きる功夫がある。世の毀誉褒貶を柳に風と受け流す生き方がある。「忍」の本質はそのような「無我」の端的を引き受ける精進の徳目の一つでもであろうと思う。
「どの面」
朝市へ渡る白南風いろは橋
いつか帰る朝空夏の燕かな
蜻蛉来る夏も終りの風に乗り
こちら向く向日葵貌が真つ暗で
境内をゆけば近道蝉しぐれ
能登富士へ尻をかかげて田草取
かんばせを花とひろげし芙蓉かな
祭男どの面さげて来たりけり
空蝉を神輿と担ぐ蟻の列
生前も死後もまぼろし水を打つ
西瓜喰らうて怒涛のごとく満足す
杳として蛇の抜け殻蝉の穴
遠ざかる祭囃子や夜爪剪る
芳しきふるさとの夜夏祭
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