「クロスカップリング・仏教は平和の触媒になれるか?」

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「クロスカップリング・仏教は平和の触媒になれるか?」


触媒を使い異なる有機化合物を結合させる技術を開発した研究者にノーベル化学賞が贈られ、「クロスカップリング」と呼ばれる化学反応が注目を浴びたことがある。

嘗て、北国新聞には青木新門氏が、『十七条憲法』の第一条に「和を以って貴しと為す」という聖徳太子の建国精神について書いていた。元は「礼記」儒行の中にあることばだそうだが、仏教の教えが柱となっていることを指摘している。それは既によく知られる所であるが、「クロスカップリング」に擬えて、「仏教」が争いの絶えない人間社会の平和への触媒になれないものかと期待を寄せている文章が載っていた。仏教詩人らしい目の付けどころである。

争いのない社会、それを個人の内面からアプローチしていこうというのが仏教だと私は思っている。「平和」という「共通の理想」が先行するのではなく、私の中に「争うことは意味のないものだ」という諦念が根のように育まれていなければならない。「戒律」とはそもそも自己に随順し柔軟心を養い身につけるものではなかろうか。私が私の命に親しみ、深まりゆく生き方。そして、あなたも。というのが仏教のスタンスではなかろうか。そこには「争う」理由が本来的に存在しない。

誰も私に代わって私の命を生きてはくれない、という絶対的な条件は皆同じである。同じ条件ながらどうして争いが起きるのか?
「争い」は執着するべき「自分」を認めるから起こるのであろう。在りもしない「私」という幻影に酔い、身を焦がすのである。そのような思いは思いだけでは済まない。行為を伴い具体的な結果となって我が身に還り人を傷つける。「思い通りにはならないが、やったようにはなる」

自己を虚しくして観察すれば、現実は「俺のもの、おまえのもの」という強引で、二者択一的な生き方とは大分様子が違う。自己が自己に落ち着き、「わたし」という「のぼせ」を冷まさなければ、「平和・正義・主義・主張」という「集団的幻影」に暴走するのは目に見えている。仏教という「教え」が「平和」の触媒となるかならぬか、それはどこまでも私一人の命への深まりに関わっている問題である。


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「この道」
これ以上背伸びはできず柿の秋
今年また初物の栗ご飯かな
かくれんぼの鬼はここよと鵙高音
憂きことの思ひ余りて菜を間引く
肩叩くものとしみれば木の実なる
淋しらの指折り数ふ秋七草
この道を母も生きたる野菊かな
容赦なく日の落ちかゝる蕎麦の花
天高くそれにつけても人の世は
追ひかけて来るとしみれば一葉なる

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