一休さん、何してる?
小春日や托鉢に子らつきまとひ 玉宗
托鉢をしていて犬に苦労したお話しをしたが、実は犬よりもっと厄介な動物がいる。
それは純真無垢と云われている「キッズ」である。
正直なところ彼らが天使ではなく悪魔の使いに見えることがある。生来的には愛らしいが、ときに辛辣であり、残酷であり、挙げ句の果ては当てにならない。
下校時間などと重なるような時など最悪である。彼等は束になると俄かにその牙を剥く。遠くからでも目敏く私の存在を確認し、奇矯な行動を取り始める。ほとんど野猿のような、放し飼い状態。
「いえ~い、一休さ~ん!なにしてる~?」
「おれ、知ってるで、坊さん、お金もらって歩いてるんやで。」
「そのお金どうすんの?」
「なんでそんな格好してるん?」
「なんで?なんで?なんで?」
「和尚さん、お化けって本当にいるん?」
「なんまんだ~なんまんだ~なんまんだ~」
「あははは、わ~い、わ~い」
何が「わ~い」なのかよく解らないのだが、とにかく矢継ぎ早の尋問に二の句が次げない。
しかし、彼らを見ていると「かたち」というものに頗る興味があり、反応しているのだなあ、と云うことに気づく。今の社会で、私の様な時代錯誤じみた托鉢姿の異形で町を歩いているのは確かに珍しいだろう。
初めて目にする対象へ、恐怖であろうが、猜疑心であろうが、期待であろうが、疑問であろうが、興味や好奇心を抱くのは自然なことだ。そういう意味では無関心より(無関心を装っているのかもしれないが)纏わりついてくる方が余程見込みがある。ちょっとうるさいことはうるさいが。
何れにしても、彼等が「かたち」の内実を知りたがっていることを見落としてはならない。冷やかしているのは、ちょっとした照れ隠し、大人になりたがっている背のびの裏返しであろう。時には「ごくろうさまです。」と云っておじぎをする子供もいる。どちらも子供なりの素直なこころの在り様だと私は思っている。
その大人たるや、「かたち・姿勢」に意義を認めなくなって久しい。それは箍が外れて収集がつかないでいる心模様の中にいるということだ。そんな大人の中で生かされている子供の「こころ」は一体どのような「かたち」に掬われるのだろうか?大人は子供にどっちを向かせて人生を歩かせるつもりなのだろうか?
私などには、自由気儘に生きて良いとされた現代の子供が戸惑っているように見えて仕方がない。
教育や政治から宗教という箍が外れて久しい。「かたち」は「箍」ではない。「箍」は外れてもいいだろう。それは歴史の力学のようなものではないか。しかし、「かたち」はいのちの必要条件であるように思える。「かたち」を求めて浮遊している「こころ」が痛ましい。
私は立ち止まって言うのである。
「托鉢っていうのはね、こうやって鈴を振りながらお経を読んでね、みんなが仲良く、幸せに暮らしていけますようにって仏様に祈っているのさ。その御礼にお布施を戴いていると言う訳。解り易いだろ。それだけのことなんだ。どうや、かっこええやろう?」
「かっこええ!」
「手伝ってあげようか?」
「おれも手伝う!」
ということで、キッズを引き連れて托鉢をすることが間々にある。それも10分も着いて歩けば蜘蛛の子を散らすようにいなくなるのだが。当てにならないとはこういうこと。それもまた良かろうと思っている。
最初の些細な仏の世界とのご縁が、彼等の人生の、最初の小さな梃子になってくれることを祈るばかりである。
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