自己に参ずる
緑陰に投げ出してゐる五体かな 玉宗
参禅は畢竟自己に参ずること。自己が自己に出会うことが人生の一大事だと云われる。当然それは他者との競争ではない。かと言って、それは狭い意味での自己満足の世界でもない。参禅の本質に出家も在家もない。卑屈なったり遠慮することもないのだが、在家であること出家であることに甘えてはならない。無理があってはいけないが、安易な道でもない。
道元禅師の仰っておられるように、参禅の要諦は自己を忘れることに尽きるのだろう。つまらない自己を一度棚上げしなければ見えてこない自己の領域がある。それもこれも、「自己とは何か?」という求心力の展開する世界の様子。忘れなければならない自己があるということは、言い方を替えるならば、道を求めている自己がいるということ、迷っている自己がいるということである。
私が生きることの意味や目的、意義というようなものがあるのか、ないのか?
問処に答えありとも言う。生きているからこその問い掛け、答えの只中に生まれ落ちているという現実。答えは既に問の中に隠れている。自己肯定のための自己否定。人生の問とはどうも、そのようなもののようである。
自己が自己に落ち着くこと以外に私のいのちは選択の余地がない。厄介なことは、その落着が得心できず、迷いの世界に生きる癖があるということ。
人間、一人では碌な事も出来ないが、かと言って、徒党を組めば碌な事をしないのもよくあること。実に自己一人を慎むことは難しい。コツコツと自己に参じて人生を切り開いていくしかない。
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