生きている私・原郷の風景
淋しくはないぞ釣鐘草揺れても 玉宗
櫂を漕ぐ少年ひとり雲の峰
北海道渡島半島噴火湾沿いにある漁師町が私の生まれ故郷である。
今頃の季節は天然昆布の採取が始まっているだろう。養殖昆布が普及した現在では一年を通じて地元で働けるようになったらしいが、昔は夏場はどの家でも一年で最も忙しい稼ぎどきだった。家族総出は当たり前。私も小学生のころから櫂や櫓を漕いで父の磯舟に乗っていた。四十年過ぎた今でも舟を操る自信がある。身についているらしい。
朝日の登る前から舟を海へ出し、一斉に漁場へ向かう。当時はまだ船外機を持っていない家もあり、先頭の小型船(チャッカと呼んでいた記憶がある)に、十艘程がロープで繋がられ引っ張られてゆく。それが子供の私には結構スリル満点。それでも船べりから腕を出しては波しぶきを当てて遊んでいた。
漁場に着くとロープが外され、銘々、昆布があると見込んだ波間に留まる。潮の流れが速い時は錨を下ろすことがあるのだが、大概の人は櫂を暇なく操って定位置を確保していた。私にはそれが中々難しく、いつの間にか潮に流されては父を困らせた。しかし、そんなときでも父は私を怒鳴ったりしなかった。流された処でまた棹を降ろして昆布を探していた。私は父に叱られた記憶がない。
父の昆布採取の技は「名人」だという人もいた。所謂、箱眼鏡を使わないでも海底の昆布の在り処を探り当て、竿にからめ取ることが出来た。毎年何処に昆布がよく生えているかを知っていたようで、海へ出ると遠くの山並を見ては、いつもの穴場を計ることができた。父は欲がない人間で船縁から溢れんばかりになると「もういいだろう」と手を止めた。父はそんな漁師だった。競争が苦手な私の性格は父譲りのところがあるのかもしれない。
父と二人で小さな磯舟で津軽海峡の当たりまで延縄漁に行ったことがある。沖へ出るに従って海の色が変わる。その怖ろしいまでの深さを想像させるに余りある群青の海。大海原に浮かぶ父と二人きりの小さな磯舟。陸では見せない頼もしい父の姿がそこにはあった。その時は大きな真蛸を釣り上げて、父も私も声をあげて喜んだものだった。
そんな父は酒好きで、素面の時は寡黙な父も酔うにつれて饒舌になり、母に踈まられていた。母に内緒でよく焼酎を買いに行かされたものだ。
「焼酎の四合瓶をください!」
二キロ離れた酒屋さんで私はいつもそれだけを言って、大事な四合瓶を落とさぬように抱えて走って帰った。夜の烏賊釣り漁に父はいつもそれを持って行くのだ。夕暮れどきの船出に遅れてはならなかった。それでも当時の私はそんな父が好きだった。
烏賊釣りの父の漁火揺れてをり
大正生まれの母は、その当時の田舎では珍しく女学校を出ていた。父との馴初めがどのようなことであったのか知らないが、漁師の妻となったことに愚痴を言うことはなかった。少なくとも子供の前では。そして、よく働いた。働き者だと言う評判は町の誰もが認めるほどであった。
ものごころついたころには父と二人して冬場の出稼ぎに出て行った。家事は勿論、畑仕事や浜の作業も、怠けるということができない性質ではなかっただろうか。日銭稼ぎの浜仕事もよくしていた。
夏場の昆布採取時期は勿論のこと、漁期が過ぎた後の、海荒れの浜にでて、寄せて来る千切れ昆布を鉤竿を使って拾い集める。それは冬場まで続いた。台風の日でも浜に出てゆく。
私は時々母にくっついて昆布拾いの手伝いにいっていたのだが、ある日、母が大きな波に浚われそうになったことがあった。幸い母は必死で岩にしがみつき難をのがれた。私はその一部始終を見ていた。小さい私に何が出来ただろう。泣きじゃくりながら「かあさん、かあさん、、」と呼ぶのが精一杯なのである。
母は私に笑ってみせて、また何事もなかったかのように、昆布が打ち寄せる次の波を待っていた。
それからというもの、天気の悪い日に一人で浜へ出て行ったときなどは、母が無事で戻ってくることを小さい胸を痛めながら待っていたものだ。
父もそうだが、母もまた要領がいいという人間ではなかった。昭和三十年、四十年代、ものの豊かさを求めることが当たり前の時代。それは地方の小さな田舎の漁師町でも例外ではなかった。父も母も結果的にはそれについていけなかった人間である。
家族の為に、社会に迎合しなければ生きていけない愛する者たちよ。思春期の私にはそれが口惜しくもあり、切なくもあった。当時の私には、その切なさだけが、唯一実感できる目に見えない確かなものだったのである。そして、この、いのちの切なさは誰にも解ってもらえないだろうと直感し絶望していた。
命日の母よ衣を更ふるころ
しかし、そんな私も成長するにつれて、お人好しで、無学で、馬鹿正直で、機械化の時代の流れについていけなくなっていた父や母を哀れむようになっていた。風邪を拗らせ晩年の父は喘息に苦しんでもいた。そんな両親を見ながら一緒に暮らしていても私には、彼らのために自分はどう生きていけばよいのか分からなかった。そしてそんな血肉への愛憎は故郷を出て生きてゆくことを私に選択させた。
北海道を離れた数年後、私のあとを追うように父と母は私の元へ漁師生活と故郷を擲ってやってきた。今、思うにその時の両親の無念さや心細さを思うと自然と涙がこぼれてくる。結局両親は姉夫婦と暮らし、私は心置きなく出家の本懐を遂げる。父も母も、出家した私が導師となり引導を渡した。
人生の皮肉というには笑うに笑えない。私は父と母を殺したがっていたのではないのかと魘されることがあった。出家は親不孝の極みであるとも言えよう。一子出家すれは計り知れない功徳があるというが、私のような出来そこないの仏弟子では六親眷族・七世父母も戸惑うことであろう。
父や母や先祖を生かしめ、死なしめた大いなる因縁の力、無常のめぐり合いの中で、今の私も生かされて、死んでゆくだろう。
両親から授かった今生の私のいのちを全うすること。それが私の親孝行であり、供養のあり方。例えそれが取るに足りないお坊さんの戯言だとしても、命生き、生かされ、死んでゆく一人の人間の真心、原郷の声であるには違いない。私は私の命に賭けるしかないのである。
露けさに眠るも僧となりしより
(以前の記事に補筆再掲したものです。市堀)
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