人前結婚もいいけれど・・

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誰待つとなけれど聖夜の窓なぞる

最近、人前結婚式という言葉を耳にするようになった。
教会や神前での結婚式のように神仏に結婚を誓うのではなく、両親やその他の親族、親しい友人などの前で結婚を誓う挙式スタイルである。ホテルや結婚式場などで対応している場所も多い。人前式の場合、特定宗教とは無関係であるため、出席者にあらゆる宗教的背景がある場合でも問題なく式を遂行できるというメリットがあるというタレこみ。挙式の進行はおおむねキリスト教式を踏襲するが(入場方法・ウェディングドレス・指輪交換・宣誓等)、その他は自由であり、立会人による結婚の承認が行われるのが特徴である。承認のしるしとして、立会人が拍手をしたり、鈴を鳴らしたり、いろいろなアイデアで独創的な挙式が行われている。人前式の儀式としては三三九度、水合わせの儀、貝合わせの儀などがある。(ウキィペディアより)

結婚の覚悟と真実を、神仏ではなく親類縁者・友人知人という人間を前にして誓うということだが、神仏に誓った結婚でも離婚が絶えない現実を思えば、一概に「それってどうなんだ」というのも憚れる時勢でもある。神仏であろうと、人であろうと、誓いを無にするものは無にするだろうし、一概に神仏を顧みない風潮を非難するつもりもない。見逃してならないことは、結婚だけではなく、人の暮らしから神仏の存在が遠ざけられていることの真相である。

神仏を顧みない、永遠を失くした現代人。
今生限りの人生、二度とない人生、儚い人生、といった命の実相を盾にして、自分さえ良ければ、今さえよければ、家族さえよければ、といった刹那的な我儘を押し通しているのではないか。或いはここにも経済優先のそろばん勘定が働いているのか。神仏は信じるがそれを司る神主やお坊さんは信じられないと批判するのかもしれないが、私に言わせれば同じことである。神仏を信じられないものにどうしてそれを司る者を信頼することができるだろう。内容的には少なからずキリスト教式を踏襲しているというが、それは「結婚も又おしゃれ」という社会儀礼であるということだけのこと。

冠婚葬祭から神仏を司る者たちが真っ先に排除されようとしている現状が確かにある。業者らの見積もりやご予算の項目には最低限の司祭者数や布施がご提供されているのだろう。能登の地方の葬儀でも、一人でも多くのお坊さんに御経を挙げてもらいたいといった風潮も薄れ、ご要望にお応えするとは言いながら、その実態は業者の言いなりではないのか。冠婚葬祭業者の存在を否定しているのではない。後先を考えない、人生の断絶性だけに目を奪われる外道の見解に捕らわれていないかと要らぬ心配をしているのである。
命は断絶と繋がりがその本質のように見える。断絶性だけに執着し、命の繋がり、永遠性を見失った現代人。

胎生しこの世に生まれ、人生を過ごし、死を以って消えてゆく私の一生。蝋燭の灯が消えてゆくように、それは無かったもののような存在であり、早晩非存在の闇が押し寄せてくる。然し、私という命の灯は、どこかに、何かに、誰かに、受け継がれているのではないか。その灯は私とは全く別物にして、私の灯を受け継いで何物かとして輝く。蝋燭の灯を継ぎ足してゆくように。
私自身も「縁」という大きな世界からそのような灯を受け継いで今生を輝いてきたのである。結婚はそのような次第の命の灯を継ぐ機縁となる一つの飛躍であろう。そのような結婚という「縁」を感謝する対象が神仏ではなく、人間だけというのも寂しい風景ではある。

いづれにしても、神前仏前とか人前とかという形を活かすも活かさないも本人たち次第であることに変わりはない。結婚の誓いは自己の良心に誓うに越したことはないのだが、その良心とは断絶した命の捉え方からは決して生まれることはなかろうと思っている。





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