雨の中の托鉢
今生の花に雨降る安居かな 玉宗
昨日は一日雨催いのお天気だった。
朝方、總持寺祖院の月例托鉢があった。總持寺通りを鈴を振り、お経を唱えながら二列になって進んでくる。制中に入ったので先頭は首座和尚である。その後に続いて歩いてきたのが孝宗さん。向う側の歩道を真っ直ぐ前を向いて通り過ぎようとしているので、大きく手招きしたら道路を横断して山門前にやってきた。なにか挨拶をしたようだったが聞き取れなかった。
雨の托鉢も初めての体験である。雨合羽を着て歩くのだが、応量器を捧げ持つったり鈴を振る手や足元はどうしても濡れてしまう。「雨安居」らしい姿ではある。
黙って浄財を差し出すと作法に随って喜捨を受け取り、回向してくれた。終わって頭陀袋から一枚の紙を差し出した。托鉢の施主に渡している「平常心」と題した短文の法話である。
以前より少しは平常値の表情に安心したが、雨の中の托鉢ということもあり、「風邪を引くなよ」と云い添えてあげることしかできなかった。「はい」とも返事はしなかったが、一瞬血の通った微笑みが垣間見られた。
「ご苦労さま」
通り過ぎていく托鉢の一団を見送る。
目の前に親であり、師匠のお寺があることは彼にとってアドバンテージであるとは限らない。
などとまた要らぬ心配をしたりする。余所見をしているのは師匠の私の方である可能性が高い。そのようなことを思うにつけ、師匠も弟子を持つことによって師匠として成長脱皮して行くのだろうと知らされる。弟子の精進に恥じないようにしなければと思う今日この頃。
托鉢を見送り方丈に戻った。「平常心」には次のようなことが書かれていた・
<平常心 五月号
汝等鬼神衆 じてんきじんしゅう
我今施汝供 ごきんすじきゅう
此食偏十方 すじへんじほう
一切鬼神共 いしきじんきゅう
こちらは生飯之偈(さばのげ)と申します。「生飯」とは、食物を生きとし生けるものに施す事を言います。
僧侶は食事の時、米粒であれば七粒ほどをつまみ、食事の後に鳥や池の鯉に施します。この「施す」という心が無ければ、いくら巨万の富を得ても、今の現状に、満足することができません。
この現状に満足できなく、いつもひもじいと、何かを求めている思いを「餓鬼」と呼びます。
生飯は僧侶だけではありません。形のないものでも施すことはできます。皆様の日常生活の中の、もっと身近な人達にも、是非この「施し」を実行してみてください。>
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