今日の自己弁護・托鉢とは?!
目を瞑り耳を澄まして春を待つ 玉宗
今日は節分。
寒行托鉢も最後となり、朝から市内をひと廻りする。例年最終日は輪島の朝市の中を歩く。一人でのデモンストレーションみたいなものか。昔は恥じらいも多少あったが、今では面の皮も厚くなったのか、実になんともない有り様である。興禅寺再建勧進托鉢でも金沢市の近江町市場を旗を持って歩いたこともある。われながら托鉢擦れていると言えないこともない。
仏道の行持を恥じらう理由もないのだが、そこはそれ、本筋とは別に衆人の目に晒されることをなんとも感じなくなるには、形もさることながら内実も又備えていなければ叶わないのではなかろうか。私が行者として本物であるかどうかは置いといて、それが理想であることだけは間違いがないように思われる。
坐禅は壁に向かって一人でゴツゴツ坐っている。托鉢も又同様である。それもこれも自己を空しくするための方便であり、実相である。何度も言うが、托鉢はもの貰いではない。施主と行者と施物に三要素がそれぞれ汚れのない存在として関わりあうお互い様の世界なのである。施しが一方通行なのではない。私も相手も共に「捨」という清浄を行じている。お坊さんは賽銭を貰ってばかりで「捨」ではなかろう。坊主丸儲けではないか、といった理屈があることは知っている。そのような視線を感じることが少なくはない。然し、はっきり言わせて貰うが、私は人間性を捨てている。少なくともその様にせねばと努めている。痛いとか痒いとか、喜怒哀楽、様々な煩悩の種を捨てようと努めている。喜捨を受ける時も私のためにありがとうと言ったことは只の一度もない。喜捨の功徳を施主へ回向し祈っている。賽銭は仏様への預かりものである。仏道の公界の調度である。私物ではない。
私は理屈を行じているのではない。3時間以上歩いてそこそこの施主に巡り合い、一対一の円満にして空寂なる出会いをしているのである。私は理屈を救うために歩いているのではない。喜捨行を志す人に巡りあうために歩いている。強制などしてはいないし、できる筋合いのものでもない。一事が万事、托鉢だけではなく、法事も葬儀も、凡そお坊さんとお布施の関わり合いといったものはそういうものである。お坊さんと雖も、霞を喰って生きてはいない。お布施は仏道を行じるための身心を養うための法財でもある。何の遠慮する気もないが、私の精進の真偽に見合った布施を頂戴しなければならんのだし、頂戴した布施に見合った仏弟子のあり方を外れではならない。それはいうまでもないことで、どのような社会でも要請される筋合いの誠実さといったものであろう。
世間の目にはお坊さんが濡れ手に粟、丸儲けの、とんでもない悪徳を働いているかのような常識もあるのだろうか。まあ、お寺にも大中小と色々あり、お坊さんにも有象無象、小僧怪僧と様々ではある。そうではあるが、それもまたどんな社会でもあり得る珍しくもない人間模様ではないか。
無駄や合理性の仮面を被った貪りでなければ幸いである。それがお坊さんへ布施することの無意味さの言い訳でなければ幸いである。現代の風潮となりつつある「直葬」とか「葬式不要論」とか「お寺はいらない」などといった言挙げも、単に社会的経済格差、不平等の自己防衛であるのかどうか。
無駄と思えばなにもかも無駄であろう。坊主に憎けりゃ袈裟まで憎いとはよくぞ言ったものだ。それにしてもお坊さんの話とお金の話しが切っても切れないとはどういう悲喜劇なのだろう。
話しが脱線してしまった。今日は寒行托鉢の最終日、四の五の言ってはいられない。それでは行ってきます。合掌
「垂氷」
停車場に猫が来てゐる四温かな
僧ひとり眠れる山を下りて来し
まだ母が帰らぬ宵の雪明り
住職に氷柱を折つてもらひけり
軒先の雪解雫に映る船
風に干す魚と並ぶ垂氷かな
出稼ぎの父が恋しき氷柱かな
だれよりも強き氷柱を探しけり
股引のわれを侮る妻なりし
仏弟子と思へぬ父の頬被
足袋穿いて向うの岸へ橋渡し
気負ふほど褒められもせず初句会
冬の浜流れ着きたき思ひあり
泣きたくて冬の汀に来てゐたり
うすらひを押してあぶくを逃しけり
癇癪を宥め賺せし寒の水
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