修行のまなざし・ある仏弟子への手紙

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風はまだ色褪せ春の汀かな 玉宗

拝啓
春の寒さの中、真摯に弁道されている様子、何よりです。上山してもうすぐ一年になろうとしていますが、愈々仏道の初関を潜り始めますね。何度も言いますが、修行は自己を明らめること以外にありません。
経歴を経るに従って自己に向けられるべき「まなざし」が外への一方通行になりがちです。他の塵境に去来し始めるということです。
一般的にも反面教師という言葉がありますが、世界は反面教師どころではありません。正面も反面も全て私自身の鏡だらけなのです。それが仏法というものと心得てください。くれぐれも鏡に対して眼を瞑り、或いは他人事のようにやり過ごし、又は拘ることのないようにしなければなりません。

他の過ちや到らなさを目にし、耳にしたときこそ、自分自身の身を正し、心を正し、襟を正さなければなりません。自己のあるべき様子に気づかせてもらったと捉えなければなりません。それは強いてそう思わなければならないということではなく、人生の真実だからそういうのです。事実なのです。人を変えることなどひと先ずは棚上げにして一向に構いません。人の到らなさをとやかく言うより、あなた自身の到らなさを何とかするべきです。修行の方向性、どっちを向いて仏弟子として生きているのか。何度でも何度でも自己に言い聞かせ、点検し、肝に銘じてください。

お父さんの初学の頃の失敗、迷走は今のあなたのいる落とし穴に嵌ったということでしだ。仏道、弁道とはこういうものでなければならない、と私自身の中に作り上げ、妄想し、行き詰ったという事なのです。はっきり言いますが理想の人間像、理想の仏弟子像、理想の修行像といったものが私の外にあるのではありません。そんなものはどこにもありはしないのです。鏡に映る自己の世界から逃げてはいけません。
今、ここに、まっすぐ自己を戴き、施している、この当処以外のどこにもあるべき理想境などないと腹を括り、決着し、捨てて生きなければなりません。仏道はなにかをつけ足すことではありません。いのちあるがまま。身も心も拘りなく、解放している様子を言うのです。

負けてもいいのです。馬鹿と蔑まれてもいいのです。正直を笑われてもいいのです。愚の如く、魯の如く。そのような勝ち負けや毀誉褒貶の埒外に逍遥と生きる知恵を身につけて下さい。人生は長いようで短く、短いようで長いものです。それもこれも私自身の生きる姿勢がもたらす光陰の様子です。
塵境に去来し、滞っている暇などありません。世の中にはつまらない人間など掃いて捨てるほどいます。それが相場と受け止めてもいいほどです。他者が自己の思い通りになるという錯覚、妄想は疾うに捨てなければなりません。

全うな人格者、聖人などそうめったにいるものではありません。それが人の世の実際です。そのような面白くもない世の中、人生の中に、ときに喜ばしい出会いがあるのです。換言すれば、そのような「出会い」ができる自己でなければなりません。仏の方を向いて生きて行こうという志とは、つまりそういうことなのです。愚かな人間性を少しでも矯めて、全うに生き抜く。いのち生き切る。自己を諦めず、見捨てない。それ以外に仏道の面目はありません。頭の理解ではなく、身心に落着するまで自己を磨くこと。これからが修行の本番、醍醐味であることを肝に銘じて下さい。他所見をせず、まっすぐ弁道精進されんことを祈っています。合掌

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「風車」

道真忌日もそぞろなる野点かな

西京の暁しるき菜種御供

風車回ればみんな素直になる

遙かなるものがぶらんこ押し出しぬ

ぶらんこはかなしき遊び今もなほ

春の風邪いふてきかすも泪して

道真忌闇も艶めく京の夜

凧揚げやあたま良き子も悪き子も

天上より妻の声する朝寝かな

海苔掻きの母を見つけて近づきぬ

寺へゆき春の浅きを肯へる

納豆粘る齋藤茂吉の忌なりけり





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