ありのままという幻想・俳句の場合
菜の花やふるさといつも眩しくて 玉宗
毎月私の妖しい俳句教室に通っている七十代の御仁が居られる。
某結社の同人ではあるが、同人であることに自信がないらしく、頻りに添削を所望する。「俳句添削」を明示してあるだけに、それはそれでいいのだが、はっきり申し上げて、添削というより換骨奪胎した改作と言っていいようなことになってしまうことが多い。それには理由があって、箸にも棒にも掛らないからである。まあ、よくて月並句。俳句の基本が疎かになっていることが気になってしょうがない。俳句歴10年ほどらしいが、人に教えることの難しさを痛感する。
「俳句」は「感性による認識詩」であるという立場でものをいうのであるが、概して人間、齢を経るに随って「観念的」になりがちだとか、「感性」の鈍化、錆びると言われるが、年齢に応じた感性といったものがある筈である。老人には老人ならではの感性があると信じたい。まして、俳句表現を目指すのであれば尚更のことである。
例えば「写生」といったことでも、「主観を先立てないで、見たママ、ありのままを描写する」と指摘するのであるが、本人は「見たまんまです」というのである。「見たママ」が「詩的表現」になり得ているかどうかが試されているのであって、散文の切れはしの様な「報告俳句」「事柄俳句」のどこが面白いのだろうと首を傾げざるを得ないのである。大雑把に過ぎて、要するに「感動の正体」が明らかでない。「俳句をつくる」以前に自分の「感動」をこそはっきりさせなければならないのである。こころ動かし感じることが先決であろう。「こころ」とは如何にも思念的と取られるかもしれないが、「いのち」のことである。「五感・六感」のことである。
「見たママ」「ありのまま」であると弁明するのであるが、本人がそう思いこんでいるだけ。というより「ありのまま」が表現足り得ていない。だれのありのまなのであるか?と言いたい。客観的ありのまま。それは散文の世界の話ではないのか?つまり「感動の焦点」が絞り切れていないのである。もしかしたら感動していないのかもしれない。五七五の字数を揃えているだけ。それってどうなんだろう、表現者として無責任と言うべきではなかろうか。
要するに、それこそが私に言わせれば「写生不足」なのである。「現実」とはそう容易く手に入るものではない。ましていわんや俳句と言う最短定型詩の作品を獲得する作業である。「写生句」に対しては未だに組み易いとか、或いは顧みるに足らないといった偏見があるようだが、大概は「ありのまま」という幻想に目を覆われているといってよい。写生がつまらないのではない。つまらない写生句がときにあるということだ。
写生、写実の先駆者である子規の作品には月並句が多いかもしれないが、どの句にも「子規の実感」がある。表現足り得ている。文学足り得ている。それはおそらく、子規がものをよく見、そしてよく感じたからである。いのちがけで彼は俳句表現者の道を歩んだのである。写生・写実の道、いのちの道を歩いたのである。ありのまま生きることの逞しさ、究極の自己責任の潔さがそこにはある。子規もまた大一級の文学者たる所以であろう。
「仔猫」
猫の子のまだ翳持たぬまなこかな
捨てにゆく仔猫を胸に泣かせをり
猫の子の瞳眸夜の海のごと
猫の子の手足ばたばた駆け出しぬ
仔猫には後ろが見えてゐるらしき
淵覗くごとく仔猫に見つめらる
蝶よりも気楽に生きてゐると思ふ
蜂の巣と付かず離れず財をなす
春林や消え入りさうな昼の月
夢を語れば丘のいたどり伸び已まず
挿木して父の齢を越えにけり
ひとり世の貝母の花にまみえけり
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