ありのまま考・人間の条件
花はみな息吐くやうに五月尽 玉宗
人は何のために生きるのか?喰う為に生きる。生きる為に喰う。どちらも真実であると思う。そんなことより、もっと人間存在の条件として見逃せないものがある。
それは「人はこころざしを持って生きる動物である」ということだと思う。
誰もが、大なり小なり「こころざし」を抱いて諸行無常を生きている。家族の為に、社会の為に、明日の為に、何かの為にという「目的」「方向性」「こころざし」がなければ人は過酷な、そしてある意味無味乾燥な、単調な、そして予想外にして無私なる諸行無常の人生を生きていくことに耐え得ない。ただ喰う為に生き生かされるということにまともな人間は耐えられるものではないだろう。「死」は誰もが避けて通れない条件であるから諦めもつこうと言うものだが、人生は無意味に過ごすには長過ぎる。「生」を諦めずに生きるには人生は余りにも複雑である。「こころざし」なく生きるには人生は余りにつまらない。
悪人は悪人なりに、善人は善人なりに、今を生き、明日を生きる為の「意味づけ」を必要としているように見える。絶望とはその「意味づけ」がときに見えなくなってしまうことを言うのである。
「生きているだけで丸儲け」と誰かが言っていたが、確かにそうではあるが、「いのち丸儲け」を「丸儲け」として「あるがまま」に受け取れているかどうかは別問題である。人は中々に「生きいるだけ」という訳にいかない厄介なところがある。世の中はそれぞれがそれぞれで満ち足りていないようにしか見えないことがある。
宗教とは「相対的意味づけ」ではなく、「いのちそのものの絶対性」に「意味」があるということだろう。比べられない「あるがままのいのち」の尊さ。仏道とは竟にそのような「ありのままないのちへ深まる」という「こころざし」に生きるということである。善悪や煩悩・欲望の彼岸にあるいのちそのものの輝き、豊饒さ。いのちは本来的にありのままで満ち足りている筈だという信念がある。それは人間の条件であると共に仏弟子の条件でもあるという信仰がある。
仏弟子も又、いのち生きる為に喰い、いのち喰う為に生き、いのち生きる為にこころざしを抱いているのである。
「五月尽」
十薬や誰も覗かぬ井戸があり
ひるがへり風によろこぶ椎若葉
花はみな息吐くやうに五月尽
蝙蝠の闇より暗く来たりけり
著莪の花しづかに刻を遡る
風露草夕べの風に散り急ぐ
雛罌粟や子を抱きしまゝまどろみぬ
麻痺の手の届かぬ先や百合の花
合歓の木も年々太る墓参かな
不束な夢より覚めて水を打つ
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