出家者のアイデンティティー・その1「自己更新」
明けてゆく空の痛みや冴返る 玉宗
宗門の機関紙『曹洞宗報2』に「曹洞宗の将来像に寄せて ~教団の今後に望まれること~」と題された特別座談会の記事が掲載されている。
これは以下のような経緯によるものである。
「平成23年に「宗門の将来像を構想する専門部会」が設置され、平成24年2月より教団将来像の核となる理念の構築を目指した「現代にふさわしい教団の理念、教団のあり方に関する分科会(第一分科会)」が宗門内外の有識者を招集して設置されました。総勢13名の有識者委員で構成する分科会から、今回は中心的な発言をいただいている3名の著名な有識者にお集まりいただき、曹洞宗の教団としての将来像を語る座談会を開催しました。」
出席者は下田正弘(インド哲学・仏教学者)、葦原正憲(曹洞宗宗議会議員)、島園進(宗教学者)、山路純正(曹洞宗宗議会議員)、池田魯參(駒澤大学総長・同大学名誉教授)の各氏である。宗門における良心的存在を代表しての発言録ということになるのだろう。
宗門だけではないが、現代に於ける「既成宗教」の存在意義が問われて久しいものがあろう。もしかしたらそれは「宗教」発生以来の問題なのかもしれない。それは極論だとしても、大震災以来、あらためて「宗教」「教団」の意義が問われていることは間違いない。否、それ以前から社会は「宗教離れ」「教団離れ」の潮流にあり、今も尚それは留まる様子もないかの如くである。果たして「宗教」は今回の大災害を契機に再生する事が出来るだろうか。「教団」は自助することができるだろうか。「出家者」は目覚めることができるだろうか。
座談会の中で、私が注目したのは下田氏の以下のような提言である。
「基本的には、社会が世俗的に一元化してきたという事実は重要な問題で、これは正面から受け止める必要があります。分かりやすくいえば、現代にあって、究極的には世俗国家という形態の中に存在する、在家の原理による社会しかないわけであり、そことは別に何かサンクチュアリ・聖域のようなものを作ってみても、独り善がりでしかなかったり、メッセージが届かないものになったりするという問題があるわけです。ですから、あらゆる問いはすべて社会という場に現れてくることを自覚し、そこに真摯に向かい合っていくということを通してしか、仏教の働き、その存在は明らかになってこないことを認識しておくことは重要です。
しかし、同時に、その社会に向き合っていくことが可能になるのは、その社会を超然と超え出る一点というものがあるからこそであります。それがなければ、相手を助けるつもりになっていて、同じ激流に流されてしまっていることになりかねない。だれもが「よかれ」と思ってやるわけですが、こればかりは善意だけではどうにもならないところで、「よかれと思ったのに、こんな結果になってしまった」というのが、人間の知恵の暗いところです。こうした、あらゆる結果を超えて、できごとの意味を照らしてくれるのが仏法です。
そうすると、よい結果のみにすがりつこうとする社会に染まらない一点というものを、出家者はこの社会のただ中で持ち続けていること。それが意識にはっきりと自覚されていることが必要だと思います。」
極めて全うな意見だと思う。
これはどの世界にも通底する個人と社会の「表現の鬩ぎ合い」といった真相でもあろうかと思う。「出家」もまた一つの「表現」である。その感性が試されている。その良心が試されている。その真価が試されている。誰も耳を傾けず、だれにも顧みられない表現・作品というようなものは存在しないに等しいか、或いは既に形骸化しているに等しい。「場」があってこその「表現」であり、「表現」されてこその「場」であり「自己」であり「他者」である。目覚めていなければならない所以だ。そういう意味でも「表現者」とは日々自己更新を続けるもののことであり、「出家者」もまた日々「欲望を超えた世界」へ自己を更新し続ける「覚者」であることが望まれるのである。 (この記事続く)
「魚は氷に」
魚は氷に腹を抱へて嗤ふ日ぞ
さよならの朝に残る寒さかな
歯を抜きし穴に風吹く春愁ひ
うなばらはさびしきところ涅槃西風
うつうつと夢の苦さの目刺食む
明けてゆく空の軋みや冴返る
二人ゐて同じさびしさ草萌ゆる
木の芽吹く空がほころび初めしより
山茶花のはなびら透かし薄氷
春雪のいつしか雨となりにけり
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