仏弟子の自己反省とは?
空に吹くラッパのかたち花オクラ 玉宗
僧堂では毎月十五日と晦日の二度、「略布薩」という行事が行われる。年に一度の「大布薩」というものもある。祖院僧堂では昨日9月1日に行われた。
安居期間中に半月ごとに自己反省し、罪を告白懺悔する内容をもった儀式である。。新月と満月に関係があるとも言われるように、元々は半月に一度、定められた地域(結界)にいる比丘達が集まって、戒本を誦して自省する集会であったという。日本には鑑真和上が伝来したとされる。南方仏教やチベットでは先輩の僧の前で新米の小僧さんが自己懺悔している映像をみたことがあるが、定期的な布薩ではないかもしれないが、自己反省が他己の面前で為されるというところが如何にも仏教的であると感心したものだった。
真実の自己反省とは何であるか?
ものの順序として自己反省を問う前に「自己」とは、と問わなければならない。宗門には「大己・たいこ」とか「他己・たこ」という面白い言葉がある。自らよりも年長の人、或いは戒臘の長い修行者に対して、大己と尊称するのだ。道元禅師には『対大己法』という撰述があり、大己への接し方、その敬い方などを詳しく示している。
「右、対大己五夏十夏の法、是れ則ち諸仏諸祖の身心なり。学せずんばあるべからず。 『対大己五夏闍黎法』」
「仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。 『正法眼蔵』[現成公 案 」
「自己」なるものは「答え」の中に生まれ、生きてゆく。本来誰も「問い」を背負って生まれて来たものなどいない筈である。「大己・他己・自己」とは「大いなる己・他なる己・自なる己」であり、それはまた「己の大であり、己の他であり、己の自である」ということでもあろう。「私・自分・自己」の真相を云い得て妙な言葉である。
その「己」たるや、私であって私でない、なにものかであり、何物でもない、一体ありながらも一部であるような、一如なるとしか言いようのない代物である。そのような世界の自己に覚醒し、方向付けして生きる。それが仏弟子の面目であるならば、そのような真相を逆しまに考えたり、本末転倒の行動をしたりすることこそ真に反省しなければならない。仏弟子が戒を侵すことはそのような天地いっぱいという領域・次元の事件なのだと私は思っている。
又、仏弟子と雖も世間的な犯罪、失敗、過失を犯すことがある。我々も娑婆に足がついているのだから、それにはそれ相応の罰や制裁を受け、償わなければならないことは云うまでもない。現世に生きるとは娑婆と浄土、空と地、実と虚の両方の次元に軸足を掛けて立っているということであろう。そういう意味で仏弟子の犯戒は二重の咎となる。
僧堂生活というものは、お経を間違えたり、古参のいうことを聞かなかったり、寝坊したり、坐禅中に眠ってしたったり、自己の至らなさと向き合いつつの日々と云っていいだろう。そのような中での宗教的自己反省である懺悔は、煩悩具足の身心を以って仏道を行ずる尊さを知る機会でもある。誓願に生きる仏弟子となる可能性もそこに胚胎している所以ではなかろうか。
生身の人間が仏の真似をしているのである。だからこそ尊いのだと私は思っている。
「ころ」
物腰に老いの兆しや涼新た
いらくさの花のころなる風の色
ゆらめいて煽ぎて風の芭蕉かな
稲雀貧しきころのすさびあり
色鳥を恋の如くに見失ひ
蛇穴に入るころといふ樵かな
錆なせる虎杖の葉や厄日過ぎ
日輪のおとろへ稲を刈るころの
追伸のやうにも秋の蝶来る
面影をたよりに鳥の渡るころ
掃き寄する塵のかろさや蝉の殻
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