現代宗教事情管見

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落葉掃きならばだれにも負けはせぬ 玉宗


葬儀という形式にお坊さんが必要とされなくなる日が来るかもしれないという話題を耳にした。
直葬とか家族葬とか無宗教葬儀という言葉や現象は以前から耳にしていた。特に都会では葬儀屋さんが主導的に葬儀を執り行うことが当たり前の世の中になっているらしい。

葬儀は社会儀礼であり、宗教儀礼でもあるとは思っているのだが、その宗教儀礼にさえお坊さんが必要不可欠な存在ではない世の中になりつつある。死者に寄り添うこと、死者との別れに当たってのお坊さんの存在意義が薄れてきている日本社会。なくて差し支えないものならば、誰だって必要とはしないだろう。このようなことになったのには、もしかしたお坊さん自身の中に、自分たちは葬儀に際してあってもなくても一向に構わないといった遠慮や勘違いがあったのではないのかな。

社会儀礼ということで言えば、家族葬はまさに家族儀礼であり、葬儀が死者を送るにあたっての恩返しでもある一面からすれば、関わり合う社会が狭くなっていることに何の疑問も危機感も抱かない世の中になっていることに気付く。家族は確かに社会を学ぶ最初で最後の場ではある。然し、全てではない。向こう三軒両隣、地域社会、仕事社会、そして自然環境。すべてが学ぶ対象であり、恩返しの対象でもある。見栄を張ってでも金を掛けろと勧めている訳ではない。キリがないと言えばキリがないのだが、それにしても家族だけで死者を送る世の中とは如何にも寂しい。それはもしかしたら、現代人がこれまでの歴史にないほど「自分一人で生きてい行ける」といった傲慢さの裏返しではないのかと思わないではない。貪りの世界でないことを祈るばかりだ。

仏道という欲を越えた世界を学ぼうともしない娑婆世界の喧騒がある。檀家制度に飼い慣らされて本末転倒になってしまったお寺社会の右往左往がある。共に人間社会の紛うことなき現代宗教事情の現実である。こんなことを事あげすると、お坊さんであるお前の食い扶持が少なくなることを心配しているのだろうと言われるのが落ではある。まあ、なんとでも言って構わないが、どちらがより広い世界で生きているか。神様だけがご存じだ。好きなように生きるがいいさ。



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「作務」

朝粥に腹空かしをり芋の露

冬安居近づく山のしんとして

作務僧の銀杏拾ふ火鋏かな

掃き寄せし塵の中よりいぼむしり

ゆく秋の忘れ箒や寒山寺

朝に夕に紅葉且つ散り且つ掃きぬ

障子洗ふ荒神池の水を汲み

鉄鉢に舞ひ散る銀杏紅葉かな

木守柿お山の空が空つぽに

石蕗咲いて夕餉どきなる空の色

鐘撞いて眠るばかりぞ冬隣

背伸びしても届かぬ月の蓑虫よ




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「草鞋干す」

弥栄の祈り果てなし鳥渡る

秋時雨天皇即位の日なりけり

令和なる錦飾れり草も木も

霜降の山下りてゆく僧一人

托鉢のみな仰ぎゆく龍田姫

賽銭の落つる音にも秋の暮

靴下を脱ぎ散らかして神無月

薬石を温め直し行く秋ぞ

誉とは縁なき暮らし芋の露

頭陀袋壁に窶れし暮秋かな

菊の香や草鞋干すには良き日なる

鉄鉢の向かうの空も高かりし

墨染の衣と色のなき風と

鐘撞いて眠るかりがね寒き日を

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