俳句鑑賞・その7

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暮れてゆく跫ばかり十二月  玉宗


〇一句鑑賞・11月26日の投句より

(承前)私にとって俳句を作り続けることは、確かに日常を生きている私の縦軸と横軸の交差の軌跡である。そしてそのような「表現するという作業」が生きる愉しみになっていることを否定することはできない。金にはならないが、欲を越えたところで私を支えている事実がある。俳句はひとりごころの世界でもあり、文字化してこころ通わすという点ではふたりごころの所業でもあろう。

そんなよしなしごとに身を入れて救われている魂の現実がある。わが俳句の地平がある。わが表現の地平がある。社会がある。私の命の地平がある。夢がある。うつつがある。苦楽がある。私の俳句が個性を云々出来るとしたら、その辺のややこしい「存在者の事情」に通じていることではなかろうかと。いずれにしても「表現力」という謂わば、一種の「自己更新力」が試されている。それが楽しくも面白い。

私は俳句に多くのことを期待してはいないが、出来ることなら私という人間の見える俳句を創り出したいと思ってはいる。詭弁めくが言い方だが、それは市堀でもあり、市堀を越えた世界の様相を呈していても一向に構わない。そして、感応しあえる作品、人に出会いたいとも。それには現実に胡坐を掻かぬまっさらな眼差しと、ちょっとだけでも背伸びしてみる詩人の冒険心が必要なのであろうと思っている。何事も出会いには一歩が欠かせない。

ということで、日常の何気なさに目を見張ることが詩人。そんな冒険的眼差しが感じられる句を。

「拉麺に半熟卵載せ寒暮 亜紀彦」
日常への聊か斜に構えたやうで、何気ない眼差し。身も蓋もない寒暮の様子が見えてくる。

「冬ざれの老人と猫だけの島 眠兎」
「だけ」と受け取る冷やかなようでいて好奇心旺盛な、何気ない眼差し。感情を抑制して、一句に韜晦しようとしている。

「スコッチの恋しき日暮れ早まりて 幸」
自己の感情に素直にことばを引き寄せようとする。できそうでできない。


〇一句鑑賞・11月27日の投句より

「俳句という生き方」

実は俳句に多くのことを期待していない。多くはない、その期待していることは何か。

私は出家して仏弟子となったことを「自己の再生」ととらえている。ところで、「詩」というものは「言葉の再生」といってもいいのではないか。俳人・故沢木欣一は「俳句は感性を通しての認識である」というようなことを述べていた。感性とはつまり、いのちそのもののこと。誰のいのちでもない。抓れば痛い私のいのち。「私のいのち」それは「仮りのもの」ではあるが、今ここにこうして、息をしている、私の思いを越えた、生かされて生きているようなしろもののこと。それは私にとって「仮のもの」ではありながらも「絶対的なもの」というしかない代物であるのが実際のところ。仮でありながらも、かけがえのない、かえられないものということ。

そこに言葉というものが関わる。というより命と言葉は不即不離という関係性そのもの。産まれてからこのかた、私は言葉とともにあった。ことばによって救われ、癒され、傷つき、恐れ、励まされ、言葉とともに成長してきた。言葉は私に寄り添い、影となり、光りとなった。言葉もまた仮のモノではあるが、ことばなくして私は考えられない。言葉との出会い、めぐり合い、選択、授かり、ご縁もまた命そのもの、五体と同じく、私の思いを越えてやってくる。言葉はあたかも、私という無心の器に舞い降り、降り注ぐ光りと影、或いは無心の泉に湧きあがる水の響きのようだ。(この項つづく)

ということで、こころの泉に湧いたやうな一句を。

「かく汚れかく鮮らけき落葉かな 直」
ものの真、いのちに共感するこころがある。汚れつつも新鮮な、落葉の本情に自己の真情を重ねる自己表現。自省がある。一体感がある。俳句がいのちを詠うとはこういうことじゃないかな。

「二の酉や手締めも慣れて頼もしき 直」
人の世の風情を見止め、言い留めている。湧き出づる愛があるね。

「似た人をちらりと見たり帰り花 無智」
街角に見とめた「似た人」。その思いを抱いた眼差しが自然と帰り花へと寄り添う。季語との取り合わせが微妙に面白い。「似た人」は「似たる人」でもいいのじゃないかな。

「雪囲い最中の雪に見とれをり 霜魚」
よくある光景かもしれないね。それを一句に仕上げた自然さ。授かる一句とはこういうのを言うのじゃないかな。「をり」とするなら「雪囲ひ」と統一した方がいいかな。

「冬の蝶手水の空を浮遊する 静代」
「手水の空」がいいね。これも「浮遊せり」の方が格調があるのじゃないかな。

「教室の隅の匂ひや初時雨 伶齋」
乾燥する冬場は臭覚が敏感になるのだろうか。「教室の隅の匂ひ」というのが突飛なまでに心憎い感性の表出である。鑑賞する者がそれぞれの「教室の隅の匂ひ」を思い出せばいいのじゃないかな。何故か無理がない。

「指人形鼻赤くなる冷たさよ 正則」
戸外での指人形劇なのかどうか。「鼻赤くなる冷たさ」という把握が自ずからなる感じでいいね。

「冬の夜のたまに優しきことを言ふ 千秋」
夫婦だろうか。その気まぐれさ加減が「冬の夜」の本情を突いているんじゃないかな。


〇一句鑑賞、11月28日の投句より

(承前)日常の言葉と詩のことばが紡ぐ世界とはなんだか少し次元が違う。というか次元がねじれている。詩という表現は感性による感性の為す、一種の離れ技のようなもの。離れるがごとく離れざるがごとく。着かず離れずとは俳句の実作に於いても取り合わせの妙に求められる技。それは俳句だけでなく、ことばの本質、つまり、私のいのちの本質がそのようなものだということではないか。

われわれの日常は多くは比べたり比べられたり、助けたり助けられたり、相対的世界、相互依存的世界である。しかし、なぜか解らんが宗教と同じように、「詩」という絶対的な領域、(私、自己にこだわる領域)によって実感される、癒される、いのちの現場、実際がある。

言葉、思いというものははかないものだが、はかないことばやものによって癒され、救われている私の命であることもまたごまかしようがない。詩や宗教というものは本来的に私にとって絶対的な世界でなければならない。絶対的ということはつまり、私がいてもいなくてもなんともない、或いは、ほっといてもらっていても何ともない世界ということ。ありのままの世界とは、あっけらかんとした、それでいて、真面目な、侵し難い世界である。(この項つづく)

ということで、ありのままの世界の輝きの一句を。

「九段より望む市ヶ谷しぐれ虹 和」
地名って面白いよね。そのものが既に意味深い歴史や地理を抱えた詩語とも言えるのじゃないか。九段も市ヶ谷もよく知らんが、字面からして段差があるのだろう。丘稜なのかな。しぐれ虹がきれいなんだろうなあ。

「デパートの木馬艶めく冬の雨 寛昭」
小学生の頃、母親に連れられてデパートの屋上にある遊園地?に行った記憶がある。誰もいない屋上に木馬が冬の雨に濡れて艶めいている。その不在感が眼に浮ぶですな。

「児の声はひらがなばかり冬ぬくし 直美」
「児の声」が「ひらがな」とは言い得て妙。こどもの声は、きらきらとやわらかく、謎めいて、耳を洗う、心地よい響き。冬の日向と青空がよく似合う。ありのままっていいなあ。

〇俳句鑑賞・11月29日投句より

(承前)俳句、文芸、言葉という「はかなごと」がある。 命あるものの営みはすべて「はかなごと」とも言える。私の「詩」、私の「俳句」は、そのような自己の更新、再生、表現。といっても別の私に変身したり、見たことも聞いたこともないことをするのでもなく、するのではなく、この身このままでいつも新しい、いのち。比べられない私のいのち、その世界の絶対性。そこに気づく、ありのままでよかったといういのちを受け入れる、認識する、実感する。創造ずる。それがなんだか分からんが私にとって絶対的な世界となる。つまり慰められ、癒され、心地よく、己を励ます機縁、生きる力となるということ。極めて個人的な見解を述べるに終始しているが、結果極めて抽象的な解り辛いものになっている。「詩」はわからなくてもいいものなのだ、という私の偏見は、解るということへの私の歩み寄り、沖へ漕ぎ出す努力をしないでいいという弁解なのかもしれん。

俳句では句意明快にして平明なるをよしとするというのが大勢だね。大衆文学という括られ方をされることもある。作品は私の期待を超えて相手に届いたり、届かなかったりする。それは俳句だけじゃなく、文芸文學、もっと言えば人間社会という現象の実際のところでもあろう。それは日常における人間同士の理解や誤解の確率と同じような私にとっての、どうしようもなさである。しかし、解ることが詩の評価を決める最大の条件ではない。解るだけでは世界に平和がやってこず、争いがなくならない現実と同じように、なんだか解らないけど、面白い、境界なんかいらない、寛容になれる、ほっとする、共感できる、という文化的自覚、生活、生き方へ傾斜する価値基準があるのじゃなかろうかと思う訳。(この項つづく)

ということでなんだか分からんが面白い一句を。

「仕合せは半分餅で出来てゐる 亜紀彦」
「半分」という断定だが、これは数量的な半分ではない。この「半分」は「なんだか分からんが餅には人を仕合せにしてくれる力がある」と言っているのだ。或いは、「仕合せは」としていることからすれば、人さまざまな「仕合せ」とは餅が好きだったり嫌いだったり苦手だったりすることと同様に、「なんかわからんが本人次第」のところがあると言っているに等しい。どちらにしても、これはもう間違いのないことだと言い切るほど、餅好きの本人は餅に全幅の信頼を置いている。又は、自分大好きの本人は自分に全幅の好奇心を抱いている。そのような作者の眼差しに映る世界の俳諧だね。餅そのものも、餅をつくる人の手間暇も、その存在感を思えば餅の本情、真を見事についているのじゃないかな。ということからして、「餅は半分仕合せで出来てゐる」と言ってもよい。もっと言えば「仕合せは仕合せで出来てゐる」とも、「餅は餅で出来てゐる」とも言ってよい。これもう殆ど禅問答だね。そのような謎めいたこころのあり様を「半分」と言っているに過ぎない。


〇一句鑑賞・11月30日の投句より

(承前)現在、日本には現代俳句協会、俳人協会、日本伝統俳句協会の三つの協会団体ある。それぞれ思うところがあって発生し、組織化しているようですな。俳句の世界では連衆といってその発生当初から一人では成り立たない要素を含んでいますが、これも最短定型詩という日本独特の文芸詩の宿命なのでしょう。私は余り組織の傘下に入ることを好みません。苦手なのです。一人でいることのほうが圧倒的に多い。この二十近く句会というものに殆ど出席していない現実がある。毎月同人誌に決まった無鑑査作品を出してはいますが、作るときはいつも一人。いつも一人で自然や季節、社会に対し、抱かれ、寄り添おうとしている。敢えて言えば、言葉と同行二人のお遍路さんみたいな有様ですな。
人と関わりたくないというのではないが、田舎者故の億劫さとと共に、文芸には一人の時間を大事にしなければならない、大事にしてもいいという暗黙の了解が私の中にはある。これは極めて個人的な言い逃れであり、誰にでも当て嵌まるとも思えない言い逃れではある。
まあ、それにしても、それほど人様にご迷惑をかけているとも思えないので、何とか私のやり方で今日までその末席に連なっているという次第。
ありのままに、かたよらず、素直に、ものをみて、ものを感じる、こころを観て、こころを感じる。地に足をつけて目に見えざるものを受け入れる。そして正直に言葉に寄り添う、言葉に正直に生きる、言葉と共にあろうとする俳諧の誠。それだけが表現者として問われ、試されていると思いたい。それは、ある種のいのちの離れ業のような気がする。(この項続く)

ということで感性豊かにして離れ具合のいい注目句を。

「初時雨街は暮色となりにけり 亜紀彦」
  潔い句の姿の離れ業。

「いつからか音信不通北風吹けり 静代」
  季語の即き具合の離れ業。

「わたくしの心を薄く初氷 真波」
  季語に見入ることが自問自答である離れ業。

「木守柿窯の煙の絶えぬ町 浩正」
  自然、風土への愛ある眼差しの離れ業。

「外套の内ポケットにハーモニカ 美佐子」
 
  季語に語らせる離れ業


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「これよりの」

十二月いつもの道を帰るかな

これよりの能登の荒海親鸞忌

ばたばたと師走の空を鳩のゆく

山茶花の散るをとどめるすべもなし

一茶忌や夕飯どきの淋しさの

着ぶくれて勝手知りたる顔をせり

大根を洗ひし水の暮れてゆく

これよりの風のすさびや冬安居

洟すするほかは音なき坐禅堂

山の端に星のゆらめく臘八会




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「心地」

尻尾なき憂ひに似たり風邪心地

気のおけぬ妻の手になる玉子酒

マスクしてもの言ひたげな眼あり

葱と塩焼いては咽喉に巻けといふ

見る限り裏の心地や冬景色

枯淡なる老いらくの身を日向ぼこ

日記買ふことなく生きてしまひけり

着ぶくれて墓石の心地してならず

窓辺あり賀状書くには丁度よき

幾山河超えて来りし歳暮かな

布団干すには願つてもなき日なりけり

雑炊を平らげ牛の心地せり

子狐の火なるか一つ遅れては

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