俳句鑑賞・その8

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近道はなんだか怖ひ雪婆 玉宗


〇一句鑑賞・12月1日の投句より

(承前)感性による認識、つまり、言葉という感性がいのちのという感性に影なし、光りなす表現の楽屋裏。そのような離れ業は「無心」でなければできるものではなかろうと思う。「無心になること」私にとってそこが唯一、仏弟子にして俳人であることの証明ともいえるのかも知れん。勝手にそんな気がしている。
能登半島地震被災の体験は新鮮なものだった。それは私が構えていなかったからだ。驚きや恐怖、喜び、悲しみ怒りだけでなく生まれたこと、生きていること、ものを見ること、感じること、言葉に出会うこと。そして死んでゆくこと、本来すべて無心なる事実の様子。私にとって俳句が詩であるためには、俳句を作ることは勿論、俳句に関わることが「生きている自己」の証明であらねばならん。かりそめの世に、はかない命の営みの中に、かりそめならぬもの、はかなからざるものがある。私にとって、無心にならなければ仏弟子となったことの意義がないことと同じように、詩によって癒されなければ俳人である意義がない。

私は私の俳句世界というものにそのようなものを望んでいる。私と俳句との関わりとは、このような無心な生き様のなかで自在であってほしい。それ以上のことを私は俳句に望んではいないし、俳句もまた無心ならざる私というものに、めぐり合うことを望んではいないだろうと思っている次第。その他のことは言わずもがなの娑婆世界のこと。

ということで、無心にして、かりそめならぬ世界を表現している新鮮な一句を。

「駈けあがる風の階段冬の駅 無智」
誰もが体験したことのある情景を一句にした無心なる所以の手柄。

「連れ立ちて別れてのちの枯野かな 真波」
余情のある情景描写がいいね。一句に無心なる調べがあるじゃないか。

「積木みな崩れて雪が降ってくる 素子」
なにか大きなものに包まれている雪の夜、或いは奈落のような冬夜の深さを感じる。それは闇か、静寂か。雪の夜空は神の愛のふところかもしれんね。

「姿なく水のごとくに笹鳴きし 美遥」
笹鳴きを「水のごとく」とは見たこともない。さらさらと流れる小川の調べか、雫のような何気なさか、はたまた手のひらに掬えば零れ落ちる泉のような謎めきかな。


〇一句鑑賞・12月2日の投句より

「俳句教室雑感」
現在、わが俳句教室に通っている生徒さんは二人である。俳句歴二十年以上の高齢者に属する男性と退職して昨年から俳句を始めたと云う女性である。何事も習い事は白紙の状態から始めるに越したことはない。ほかでもない、俳句歴の浅い女性の方が俳句的感性に秀でているのだ。男性はさる結社の同人でもあるのだが、観念の窮屈さに自縛している様な観が拭えない。新鮮味がないのである。

月並や類相の弊害に陥りやすいのは観念句、写生句のどちらにも当て嵌まるものではあるが、どちらかと云えば観念句の方がつまらない事の方がおおいのではなかろうか。自戒を込めて言うのであるが、自己満足、自惚れは文芸の塩ではあるが、何事も過ぎたるは及ばざるがごとしで、鼻もちならない狭い世界を提示して事足りているつまらなさ、お目出度さがある。

何度も言うのだが、俳句がつまらないのではない。ときにつまらない俳句があるのだ。観念がつまらないのではない。ときにつまらない観念があるのだ。写生がつまらないのではない。ときにつまらない写生があるのだ。人間がつまらないのではない。ときにつまらない人間がいるのだろう。自己を買いかぶらず、見捨てず、侮らず、あきらめず。それはそのまま言葉への寄り添いとなろう。俳句の類句類想を屁とも思わず、尚且つ自己類想を抜ける気概。なんのことはない、作者の生き方そのままが表現となる秘訣にして正道ではないか。

自己表現には流行への臭覚と共に普遍性、客観性といったものへの遠慮が欠かせない要件である。言葉は生きものである。表現とは言葉という生きものを手なずける謂いであるのかもしれない。そこに個性が出るのだろう。(この項つづく)

ということで、生きもの感覚的な句を。

「冬空の子規球場や上野山 祐」
なぜか「冬空」が利いている。子規の晩年が重ね合わされるからだろうか。「上野山」と名詞止にしたのが更に功を奏している感じ。

「あつといふ間の還暦だつた師走来る 霜魚」
実感なのだろう。それを一句に述べただけ。それだけの生な面白さがある。「師走来る」も悪くないが。「あつといふ間の還暦だつた初時雨」なんてどうかな。

「扉よりマスクの波の押し寄せる 紀宣」
「マスクの波の押し寄せる」というのが生々しい。マスクには対する人を思わず身構えさせる生な感覚があるね。

「南座の大屋根黒くしぐれけり  栄太郎」
「黒くしぐれけり」という把握が生々しい。「大屋根」がいい感じでイメージを醸している。

「紅葉山鹿の子斑らも消えにけり 美音」
子鹿のまだら模様に注目したところはいいのだけど、もう季節的には仲冬。紅葉山より「雪来ると鹿の子斑らも消えにけり」としたら、もっと生々しさが伝わりそうだね。


〇一句鑑賞・12月3日の投句より

(承前)そのような表現の一つであるたかが五七五の最短定型詩であるが、定型に翻弄されるのではなく、この定型を使いこなすには或る種のセンスがいるようだ。俳句的把握、俳句的美、といった世界の切り取り方、関わり方があるだろう。俳句という韻文に、新聞の社会面で扱うような事柄を詰め込むようなことをしても、それは散文の切れはし、新聞の見出しにも劣るというものだ。韻文と散文とでは言葉の色合い、深み、響きが違うのではないか。それはとりもなおさず、感応している領域が異なるからであろう。

 韻文は事実の報告ではない、事柄の脚本ではない。理屈の陳述ではない。説明ではない。詩とは解ることではなかろう。感性による世界の認識。いのちという感性が、言葉という感性の所産を無心に使いこなすのである。そこには当然、「理解・理屈を超えた世界」への憧憬、共鳴、共感が働いていなければならないのではなかろうか。わがこころの響きを織りなす韻文でありたいものだ。(この項続く)

ということで微かなこころの響きを感じる一句を。

「深すぎて鳥が溺れる冬の空 直美」

季語季題の本意本情といったものがある。この句の場合「冬の空」が座五に据えられている訳だが、歳時記では天文に属す。空の語源は、反る、背裏(そうら)などと言われるように日本人は空模様に対する関心が深いとされる。
日本の冬空は太平洋側と日本海側では聊かならず様子が違ってくる。私は能登半島の輪島に棲んでいるが、今では使われなくなったようだが「裏日本」である。富士山が鮮やかに映える太平洋側の冬青空と違い、山脈を越した日本海側はまさに毎日雲の裏側を見て暮らしているような塩梅の空模様が続く。

さて、それにしてもどちらにも共通する「冬空」の特徴といったものがあろう。秋は「高さ」、夏は「青さ」春は「かそけさ」といったところかな。掲句では「深さ」としているところからして、太平洋側の冬空かな。
寒天、凍空、冬大空といった言葉もある。「玄冬」という言葉もある。「黒」である。「深さ」「黒さ」から受け取る冬空のイメージからは私などは「むなしさ・遥けさ」という言葉が一番ぴったりする。

まあ、いずれにしても「空の深さ」それも「深すぎる」空に「鳥が溺れている」というのである。「溺れる」か、「愛に溺れる」ということもあるね。この一句は決してマイナスイメージだけでは出来上がっていないように思うのだがどうだろう。
「冬空」を「神の愛」としたら「鳥が溺れる」といった眼差しには憧れや羨望のようなものさえあるではないか。生命賛歌と言ってもいい。そんなこころの響きを感じるな。むなしきまでにまでに深い神の愛、人の愛、そして冬の空。溺れている鳥とはまさに作者である所以。ということで、もっとこころ響かせたいので、私なら「冬空の深きに鳥の溺れたる」なんて表記にしたいな。


〇12月4日の投句より

(承前)つまり、私の生き方そのもののと切り離せない詩的真偽が、俳句の前提条件として要求されているということ。詩は無心の器に降り注ぐ。そうでなければ表現という言葉を越えた世界の一句を授かり一句に出会うこともなかろうし、一句も又、そのような私に出会うことを望んでいるに違いないのだから。文弱の徒ながら、たかが定型に命を削る所以も那辺に窺い知れようというものだ。
俳句教室では毎回十句前後の作品を鑑賞し、添削、推敲している。共に学んでいて気付くことがいくつかある。自戒を込めて言うのであるが、例えば、俳句も又文芸であるからには「言葉」との「格闘、選択、選別」といった表現の為の必要条件が欠かせないということ。当たり前なことではあるが、最短定型詩である俳句の実際では「言葉」への「拘り・精選」度といったものが結構緩いようなところがあるからである。韻文が感性の賜であることは、言葉の問題が二の次であるということではなかろう。「言葉」を引きよせ、或いは引き離すのも、作者の感性に委ねられた力技であろう。「言葉」は感性のかたちである。それを使いこなし、再生し、息を吹き返させなければならない。俳句の命は「新鮮さ・あたらしみ」である。それは「いのちの気息」に添った文芸形式であることを意味していよう。(この項つづく)

ということで、今日は良くも悪しくも注目した句を。で、添削しちゃう。ご参考までに。

「湯豆腐や掬ひ難くて恨めしき 直」
「恨めしき」ですか。理詰めで終わるより、「湯豆腐の掬ひがたきを味はへり」とか。

「歯磨きの氷柱拝めり宿の朝 無智」
「歯磨きの氷柱」は文法的におかしいのでは。「宿の朝」は省略してもいいでしょう。「歯磨きをせしまま見たる氷柱かな」で満足しましょうか。

「ラグビーや青空を斬るハイパント 和」
いい感じですが、「ラグビーの」でいいんじゃないかな。「青空を斬る」というより、「空へ飛び込む」なんかどうだろう。「ラグビーの空へ飛び込むハイパント」

「家飲みの肴持ち寄り冬ぬくし 正則」
季語がイマイチかな。「家飲みの肴持ち寄る囲炉裏かな」とか。

「からからと落葉の急ぐ中山道 千秋」
「中山道」ですか、座五がイマイチ意外性がない。私なら「からからと落葉の急ぐ交差点」の方が面白い。

「くつさめに鬼を吐き出す四畳半 美遥」
「手袋を入れ忘れたる柩かな 直美」 
どちらも季語に寄りかかっていないのがいい。そうでありながらも、季語が生き返っているね。焦点を絞り、省略されたさっぱり感がある。

「恐竜の爪持つ鳩よ冬夕焼 直美」
「よ」が強いかな。さり気なく「恐竜の爪持つ小鳩冬夕焼」とした方が面白くない?








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「顔」

着ぶくれて国を追はれし顔となる

冬蝶の行き処なく来りけり

綿虫やお釣りを握り帰るとき

後のなき師走の顔とすれ違ふ

雲ゆきの妖しき煮込みおでんかな

風呂吹や味はひ深き顔をして

掛乞ののつと顔出す勝手口

湯豆腐やほろほろ舌を転がして

随分と生きた心地や干菜風呂

熱燗や免れ難き顔をして



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「夜の雪」

能登沖に雲の居座る恵比寿講

畳替へひと際寒き四畳半

駆落ちの姉の角巻遺るのみ

おそるおそる足添へてみる湯婆かな

雪安居夜は軋み鳴くあすなろう

裸木や夜な夜な星を鏤めて

舞ひ降りて来たるしづけさ夜の雪

窓開けて夜の初雪仰がしむ

夜の火事と聞けば駒子を思ふなり

一茶忌の引っ被りたる蒲団かな




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