流れのこころ

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冬の浜瀕死の波がうち寄する 玉宗

生きることは「流れ」そのものである。「諸行無常」と古来より言い慣わしている通りであるが、その真相が身に沁みて実感させられる今日この頃。何を今更ということになるのだが、恥を忍んで事あげするのではある。

道元禅師は「時は有なり。有は時なり」と諭された。「時」とは「いのちそのものだ」ということ。「時」とは「無常」「流れそのもの」であり、それがそのまま「有」「いのち」であるというのだ。「無常は仏性なり」という言葉もある。われらが存在者は「流れ」をその本質、面目、醍醐味、真相としている。内外一如なるが故に、「流れそのもの」が全てであるということ。

人の一生とは「流れを学ぶ旅」「流れながら流れを学ぶ道程」そのものということのようである。
仏道がありのままにいきることを理想とするのには、流れに逆らって生きようとする本末転倒があるからだ。溺れる者藁をもつかむという。その真相は、流れにあって藁を掴むから溺れるのである。溺れたくないと舟に載って流れに掉さしてゆく者もいるだろう。人生という激流を乗り切るのには大きな船であるに越したことはないが、わが身の器以上の舟もあろう筈もない。小さすぎて流れに翻弄させそうだし、かといって余り大きすぎては座標するということもある。


諸行無常の流れを生きるコツは、力を抜いて流れに身を任せ、心を任せて生きることが最善である。力を抜けば浮く、身を捨てて浮ぶ瀬が確かにある。というより、流れそのものが、わが身わがわが心が浮ぶ瀬なのである。今、ここ以外のどこにも浮ぶ瀬がありはしない。人は倒れたところかしか起き上がることはできない。今に倒れ今に起き、流れに倒れ流れに起き上がっている。いのちは一度だって流れを止めたり、遡ったりはしない。いのちは迷うことなく、生老病死、そのときそのときの風景があるばかり。出会いがある。別れがある。迷いがある。覚りがある。苦楽がある。希望や絶望がある。初心がある。末期がある。今がある。永遠がある。眼差しがある。救いがある。それもこれもすべて「流れ」の為せるところのものだ。

いのちとは流れそのもの。それだけが第一義としてある。仏法に奇特なし。まさに日々是好日なる所以である。娑婆世界の喧騒とは流れの間に間に浮んだ欲望や妄想の泡沫に過ぎない。何ものにもとらわれず、飄々と流れのままに生き死にする。本来、握るべき藁もない。本来無一物という壮大な流れの世界があるばかりではないのかな。


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「して」

龍の玉さうしてだれもゐなくなり

やるのことのなくて出歩く海鼠かな

鯛焼を二つくださいどうしても

羚羊の眼差し深くさ迷へる

かうしてはをれぬぞ裏の山も眠り

着ぶくれてなにをしてゐるでもなくて

而して冬大空のあるばかり

鴨翔つとみれば佐保川暮れ迫り

葉牡丹が並ぶ大きな顔をして

数へ日や小銭ばかりがよく溜まり

藪柑子火種のごとき実をつけて

いつも斜めに日の射して

夕飯に少し間のあり石蕗の花

泣いて泣いて赤き目をせし兎かな

柚子風呂を上がりしみじみしてゐたる

飛び跳ねる狐の影が月の面に




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「出歩く」

冬眠の山のしづけさありにけり

鴨翔つとみれば佐保川暮れ迫り

羚羊の眼差し深くさ迷へる

やるのことのなくて出歩くかじけ猫

雲裂いて日矢差し込めり白鳥湖

笹鳴やいつも斜めに日の射して

毛嵐に肩を窄めて鷺の立つ

闇過ぎる鼬のまなこ赤く光る

流されてゐるとも見えず浮寝鳥

寒空に尻を掲げて猿さかる

屋根裏を貂の行き交ふ雪の夜

狼を飼ひ慣らしたる女とか

月に恋して赤き目をせし兎かな

手探りの闇へむささび飛び去りぬ

飛び跳ねる狐の影が月の面に







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