『拝啓、良寛さま』その45

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「もう一人の自己に出会うために」

今日は倅が僧堂へ上山する日である。新しい世界へ足を踏み出すには不安と期待の綯い交ぜの落ち着かなさがあるだろう。顧みれば、人生とは別れと出会い、そして発見や感動、失望の連続であり、後先も明らかならぬまま、今の命を戴くばかり。人の先入観や都合を少しづつ裏切り人生は展開していくとも言えよう。彼も又、彼なりの絶望を経験した上での人生の選択であっただろう。良き出会いが人生の宝であることは言うまでもないが、自己にとって出来れば忌避したかった事柄さえも掛け替えのない出会いであり、別れであったことを頷けるのも諸行無常のお蔭である。絶望したことのない若者など信用できない。純粋で、ロマンチストで、ナルシストで、センチメンタリストで、脆く、無知で、一途。それゆえの若さの挫折というものがある。

今、仏弟子として未知の世界へ旅立とうとしている倅にとって、仏道の世界での出会いや別れ、感動、そして失望があることであろう。それらの人間模様、人生山河を乗り越え、受け入れ、自己のものとする逞しさ、柔軟さを持っていてほしいと切に願わずにはいられない。全てが自己の命の風景である。失敗を恐れず挑戦せよとはよく耳にする若者への激励の言葉であるが、挑戦することも出来なくなった分別のある大人からの餞の言葉でもある。

正式に入堂してからは、仕切りのない団体生活である。坐禅、就寝は坐禅堂。日中は衆寮で過ごし、看経も作務も食事も、基本的には常に衆と共にある。大衆一如といってイワシの群れではないが、何人いても仏道に向かって一つの方向性を維持してゆく。個性といったものを必要としない。裏表、穏顕なく生きて行かなければならない。隠し事なく、拘るべきものなく、無一物。それが仏弟子の還るべき家である。叢林とも別称されるように、修行は競争ではない。能力も見た目も高低差がある者たちが集まり、芋の子を洗うが如き行住坐臥。その月日が知らぬ間に角の取れた人間とさせ、まあるい人格のお坊さんを育てる。それぞれがそれぞれの器で以って自己克己の精進をし、自律他律の中で真っ直ぐに天に伸びて行く。究極の個性尊重である。否、命尊重である。

修行と言っても、自己が自己に落ち着くだけの話であり、道程である。その歩みを間違わないためにも、しばらくは自我を忘じ、離れ、執着を捨てなければならない。無為を学ぶ日々ということだ。無為になる為の手間が掛るのは、生まれて此の方身に付き心に付いた癖がある証拠。自他の二見を断ち、命あるがままのなんともないところを狙って精進しなけらばならない。自力である所以だ。それは作為ではない。我見を離れる精進をしていれば、もう一人の自分に出会える日が必ず来る。余所見をせずに、まっすぐ修行することを願うばかりだ。

若さ、それは自己の命の可能性を生きることである。儚く危うい人生の諸行無常の流れに棹さして、今を精進する以外に自己の在り処はないし、永遠に繋がる手立てはないものと知らなければならない。人生とは自己が自己に決着するための試練にして出会いの旅でもある。誰もお前の足に代って人生を歩いてはくれない。旅をすれば視野が広まり、展望もきくであろう。そのようにして人は夢を育て夢に生きて行く。それはお坊さんの世界でも同じことだ。出家とは再生。生まれ変わること。なんともない広やかな自己の世界へ躍り出る事。それが父であり、師匠である私からの衷心からの餞の言葉である。あきらめず何度でも挑戦してほしい。倅よ、逞しくなって戻ってこい!(この記事は十年ほど前のことです。つづく)



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「真顔」
だれになんと言はれやうとも恋の猫
着膨れて仄暗くしてゐたりけり
寒鴉手持ち無沙汰に鳴く声す
臘梅の滴り落つるやうに咲く
生きてゐる牡蠣を頻りに喰ひたがり
海鼠舟浦にたゆたひ掉させり
寒泳のやがて真顔となりにけり
雪晴や髭剃りあとも青々と
肩窄め脛に傷ある冬の鷺
うたかたの空にひとはけ冬の虹
ばら撒きしやうにも遊ぶ寒雀
老いらくの褥うすきや草城忌




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「冬靄」
潮の香の風に晒せし霰餅
冬靄の沸き立ち流れ沈もれる
塗師町の路地はしづけき雪しぐれ
沖止めの港に雪の降りしきる
雪解風らしきかろさに吹かれをり
生姜湯をもてなされたる風邪心地
手毬唄行きて帰らぬ調べにて
星空の氷柱を叩き落としけり
二人ゐて一つの夜の葛湯かな
寒蜆丑三つ時をぴゆう鳴く



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