『拝啓、良寛さま』その135

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「仏道というかたち」


前回の俳句では「詩心」という謂わば「かたちならざるもの」の「昇華」といったようなことであると結論付けたつもりであるが、「仏道」という生き方に於いてもそれは同様の根回しが必要であろう。つまり、ここに「わたし」に拘り、「わたしの世界」に苦悩する存在が先ずあったということである。それは「詩心」とはまた少し違った煩悩の様子である。「生き方」に苦悩するとは現実という喰うことに直結する抜き差しならなさがあるということである。抜き差しならないとは言うものの、その実体は喰う為に生きるのか、生きる為に喰うのかといったような類の、実につまらない括りの問題提起をしている。問題の為の問題、みたいな。自己撞着、自己矛盾、益のない自問自答、益のない拘りであることが多い。人生に「遊び」がないことにより、人生に夢中になれないのである。いつまでも人生執行猶予期間中であるような不健康さが漂っている。実につまらない代物と化している。ある意味、いのちを弄んでいるとも言えよう。いのち本来の面目が未だ発揮されていない。どこかで人生に自らブレーキをかけている。そんな苛立たしさ、もどかしさ、勿体なさが消え去らない。どうすればいいのか?といったような「?」を常に抱えている。存在そのものが「?」と化している。竟に「?」は「いのち」をして「曖昧なるもの、かたちならざるもの」として認識して尽きる事を知らない。

それでも「いのちそのもの」は「?」を置き去りにして事実として諸行無常している。これはどうしたことであるか。「生き方」という「かたち」を求めるということは、つまり「?」に終止符を打つことであり、「?」をして「!」に転換することではないか。誰がなんと言おうと、自己のいのちは自己が頂くしかないのである。実に平等の極みである。それがいのちの実相であろう。求めているうちはまだ「実相」を手に入れてはいないのである。それは「頭の理解」に留まるようなしろものではない。いのちの事実、その理解、理屈などといったものは事実の前後にいくらでも出没させることができよう。「仏道」という「生きるかたち」は「いのち」という「?」にして「!」なるものを丸ごと受け入れ、弄らないことである。いのちは解答の中に生れ落ち、生き、そして死んでいくのである。一生「?」を抱えて生きたとしても、それもまた大いなる「!」の様子とも言えよう。竟にいのちは自らの「!」から逃れられないのである。いのちありのままでいること。そのような「仏道」の「かたち」を維持することは実に並大抵のことではないと言ってもいい人間社会の現実がある。人は様々な「並大抵ではないこと」に人生を賭けたがるものではある。それを笑うつもりはない。人生とはなにがしかのものを賭けて生きることでもある。掛け替えのないいのちを賭けて実に様々な「並大抵」に成り下がる人間らしさ!

「かたち」ばかりに拘る、と批判的になることがあるが、それは「かたち」の盛るべき「内実」を持っていない人間の失言であることが多い。「かたち」を「真似すること」の難しさ、「かたちばかり」であることの奥の深さを未だ知らないことが多い。「かたち」に賭けるべき「内実」が希薄であることが多い。形骸化しているとは恐らく「かたち」が本来の「かたち」をなしていないということではないのか。「かたち」と「内実」とは一体のものではないか。言い方を変えるならば、「かたち」とは竟に「かたちそのもの」を超越・超克することを望んでいる。少なくとも、そのような内実を待ち望んでいるかの如くである。「仏道」も又、そのような「内実」を「創造」する働きのあるものでなければならないだろう。「かたち」は「古い」くて常に「新しい」とは、そのような事情があるからではなかろうかと思っている次第。

時々、テレビの取材現場に亡霊のように映っていることもあるお坊さんの托鉢姿。それは門付けしてお経を上げるタイプではなく、ほとんどが棒立ちしているだけのものである。街頭募金などに見られるやり方で、宗門でもこの方法で伽藍再建のための浄財を集めた方がいることを知っている。一日中、同じところに衆目の的、或いは無視の中で立ちつくす。私は今まで専ら一軒一軒の玄関先に立ったり、お経をあげながら歩き続ける托鉢である。どちらがどうのこうのというつもりはない。その土地の風習とお坊さんの見解に見合った方法で行じていけばyぽい。今回、取り上げるのは「お坊さんではないのに衣を着て、網代傘を被り、応量器を手にし、誰が見てもお坊さんの托鉢である」と誤解させてしまう方々がいることである。誰が何と言おうと、自称お坊さんで生涯を貫き通すというのもありかもしれないが、それは今ここで問題にしない。

誰が見てもと書いたが、実は誰が見ても偽物と解るのではないかといいたくなる。少なくともお坊さんが見れば一目瞭然である。お坊さんが違いを指摘しないかぎり、一般の人達は托鉢とはああいうものなんだと認識することだろう。形を真似たらしいが、その形が形になっていない。一般的に「姿・形」の方が真似がしやすいと思うであろうし、「形ばかり真似して、中身がなっていない」という言葉はよく耳にする。然し、ことはそう単純な構造でもないし、実際「こころない形」に惑わされ、救われている現実がある。大地震被災の頃、「思いはだれにもみえないが、思いやりはみえる。心は見えないが、こころ使いはだれにもみえる」というACのコマーシャルが有名になった。似非お坊さんたちは「こころがみえない」ことを鵜呑みにして「形」を真似しているのだろう。然し、彼らは「かたち」の「遣り方」「使い方」を知らないと私は言いたい。何故か?こころの本質を知らないからである。

「意」は似せ易く、「姿」は似せ難しという本居宣長の言葉がある。「意」「姿」も「似せ易い」「似せ難い」ものであって、それはどこまでも「似てる、似てない」という範囲での話である。それそのものではない。それはどこまでも似ているが非なるものである。だれが真偽を知ることができるのか?本人だけが知っている、と言い切れるものでもない。本人が一番勘違いしている、妄想している、思いこんでいる、偶像を懐いていることは日常茶飯事である。こころはそれほどに厄介で、うつろい易く、捕えがたい。姿もまたそのような心模様の影絵のようなものかもしれない。

托鉢であがる浄財の額などしれたものであることを、お坊さんも喜捨してくださる方も、暗黙に了解している節がある。何も目くじらを立てなくてもいいだろう。生活保護の一環として大目に見てやればいいではないかという日本人的情緒からの寛容さもそこにはあるのだろう。このような家業も今に始まったことではなく、似非お坊さんもそれなりに歴史があるのかもしれない。彼らは喜捨してもらった浄財を衣食住に使っているのだろうか?宗教的公金に使っているのだろうか?困窮者や被災者への援助金として使っているのだろうか?そんなことはだれにも聞かれもしないのだろう。このような現実であることからして、逆に乞食根性で托鉢をしているお坊さんもいることであろう事は予測に難くはない。然し、本物と偽物を見分ける目を育てなければならないことは、托鉢やお坊さんの真偽だけではなく、あらゆる社会での問題でもあろう。お坊さんが「生き方」ではなく、「職業」として自他に認められている現代。彼らはその曖昧な境界線を見事に衝いて世の中を渡っている。

以上のような事の通塞と合わせて平等と区別の問題がある。味噌と糞を一緒にできない区別が歴然としているのも現実であり、味噌も糞も糸瓜もない平等のいのち歴然なることも事実である。同じお坊さんと雖も、小僧さんが禅師様の席に座ることはあり得ないのである。同じ人間であるが、お坊さんと乞食は違うのである。お坊さんも似非お坊さんも見て見ぬふりをされている現代。お坊さんも社会も、たかが托鉢と侮ってはいけない。小も大もない、取るに足りないと思われる「侮る心」から大きな「綻び」を来すことは古今の歴史の示すところである。「意・こころ」「すがた・かたち」ともに侮ることを已めない限り、身も蓋もない、味噌も糞も一緒の、元も子もない可笑しな世相が続くことであろう。混乱したあやふやな時代なればこそ、騙すほうも騙される方も、暗黙のうちに見事に本物と偽物を嗅ぎ分ける能力が人間にはあると信じたい。





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「さみどりの」
さみどりのそよぎや萩の若葉なる
睡蓮の浮葉捲れば目高の子
橡の木や花房掲げ天を衝き
その辺にうち捨てられて昼寝覚
さみどりの命うすきも子蜘蛛かな
負け越しの父を敬ふ日なりけり
雛罌粟やそよ吹く風に惑はされ
芍薬の蕾固きや蟻擽る
さみどりのまだ夢知らぬ七変化
蒲の穂の浮かび上がるや藪月夜

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