誕生日雑感

生きながら命枯れゆくいぼむしり 玉宗 今日11月16日が私の誕生日である。 満65歳になった。年金が戴ける年になってほくそ笑んでいたのだが、早速「介護保険料」なるものの振込用紙が送られてきて、その結構な負担金に生きる気力が萎えていく思いがしたのにはわれながら予想外な心理だった。 介護の世話になる日のための担保と…
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不肖の弟子の弁明?!

僧となる不思議な月日干大根 玉宗 先日、大本山總持寺に於て閑月即眞禅師雲海興宗大和尚の荼毘式禮が厳粛に執行された。出席を誘われたのだが思うところがあってお断りした。その思うところの一端を書いてみよう。  私が縁あって板橋興宗禅師に得度して戴いたのは昭和56年である。当時は公職として大本山總持寺祖院の後堂職に就…
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俳句大学「一日一句鑑賞」

『11月10日の一句』 「木枯らしに攫われていく薬指  素子」 「大蒜を叩きつぶして虎落笛   草民」  「句意明解」をよろしいとするのが大勢である。とくに写生俳句を唱導するにあたってよく目に耳にする。然し、どうだろう。「句意」が「明解」であるということはどういうことか考えてみたことがあるかな。俳句が定型詩…
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俳句大学「一日一句鑑賞」

『11月8日の一句』 「大鷲の風を呼び込み飛びたてり 満徳」  つらつらと何の脈絡もなく俳句の正体や可能性について思いを巡らしてみた。今更ではあるが「俳句とは何だろうか」とときどき我に返ったかのように自問自答したくなる。最短定型詩という定義に異議を唱えるものはいないであろう。「詩」「韻文」なのである。「叙述」「散文」…
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無事是貴人 

山眠りものみな遠くなりにけり 玉宗 願い事なんてしない方がいいのじゃないかと思うことがあります。一見願いが叶ったり叶わなかったりしたことも、時が過ぎれば糾える縄の如き次の因縁を展開します。願いが叶ったと言っては有頂天になり、大事なものを忘れ恩を忘れてしまう愚かさの繰り返しではなかったのかと。 畢竟、ものご…
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俳句大学「一日一句鑑賞」

· 『11月4日の一句』 「星飛んで漬物石の丸きかな 正則」  とぼけた感じがいい感じ。とぼけてはいるが小さな発見は小さいながらに確かにある。一直線な流れ星に対応する漬物石の丸さ加減。それは暗い夜空の底なしの丸さ加減、宇宙空間の手応えのなさに比べれば、手にもとれるほどの確かさであり、その不思議さ加減に作者は目を見張る…
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俳句大学「一日一句鑑賞」

『11月2日の一句』   「放棄田の畦の数珠玉実りたり 貞子」  私は高卒で大学というものに興味もなかったし、家が貧しかったので進学という選択肢を端から持ち合わせて居なかった。だから「大学」という世界を傍から見て想像するしかないのだが、「学ぶことが好き」という人間が通うところなのだろうとは思っている。  「大学」に…
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物心一如

われなくて色なき風のかろさかな 玉宗 人間が持つ「物への執着」は相当なものです。 本人が思っている以上に抜き難いものがあります。過剰な物や情報洪水、そして、満たされないこころの空虚。「断捨離」を実践したいというのも、そのような空虚感を清算したいという切実さの表れなのではないでしょうか。それはものとこころのバランスを欠いた…
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初老のこころ

老いといふ旅の途中の紅葉かな 玉宗  令和二年十月も晦日。 ここに来て輪島にもコロナ感染者が出たようで、なんだかんだ言っても他人事の域をでなかった危機感だったかもしれないと思い知る。コロナウイズという言葉がある。未知のウイルスということでまだまだ分からないところもあるのだろうが、事ここに至って、風ウイルスやインフ…
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小さなお葬式

死ぬる世の今どのあたり秋惜しむ 玉宗  最近とみに目や耳にする「小さなお葬式」という耳触りの良いキャッチコピーやコマーシャル。私などは正直なところ宗教界から何の反応もないのが不思議でならない。少なくとも正式な見解を見たことも聞いたこともない。  我が寺などは掛け値なしの零細寺院。そんなお坊さんの立ち位置から批判を…
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生死に向き合う

  足袋穿いて死者に一番近くをり  私どもは時に隣人として、時に親族として「死者」と向き合うことがあります。お坊さんは一般の方々より「死」に関わることの多い立場かもしれません。正確には「死者を送る」「死者に寄り添う」といった方が実際のところです。 「死と向き合う」とは「死ぬゆくものと向き合う」ということでも…
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お寺の公益性問題

落葉掃くことより習ひ始めけり 玉宗  仏教界で公益性の問題をめぐる議論が盛んになったのは、行政による公益法人制度改革があったからで、この制度改革が宗教法人にも及び、何か公益にかなう活動をしていないと「公益性に欠ける」とされ、宗教法人課税の議論が必ず出てくる。嘗て『アエラ』誌上で洗建氏がこの問題について次のような注目すべき意…
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捗らぬ終活

捗らぬ終活酒を温めむ 玉宗  昨日は思いがけないことがあった。 倅が私と夫人の誕生日を纏めて祝ってあげるということで、市内の予約制で評判のイタリア料理店で夕食を共にした。初めてのことで何か魂胆があるのかと一瞬悪魔の囁きが聞こえたのだが、それは杞憂で、純粋に両親の誕生会をしてあげたいという思いであることは日頃からの言動…
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秋果のこころ

柿を剥く母を見てゐてこころ足り 玉宗  輪島の永福寺にはときどき珠洲から車で果物の移動販売をしているおばさんがやってくる。自家生産のモノばかりで、寺族もお気に入りで、いつも来るのを待ち侘びている。先日は今年初めての柿を積んできた。   秋の果物にはいろいろあるが、私の生まれ故郷である北海道に柿はなかった。柿は青森…
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コロナ終息祈願祈祷法要顛末

勤行や雁がね寒きあさぼらけ 玉宗 永福寺の恒例秋の観音祈願祭が無事終了。 弟子に住持位を譲ってから法要の導師をさせていたのだが、今年は隠居である私が修行した。それには二つ訳があった。 一つはコロナ終息を祈願する法要をどうしても私の作法でやりたかったからである。今年の五月の朝の勤行で「大般若経理趣分」の真読を続けてい…
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夫人の誕生日

柿剥いてくれる妻ありしづかな夜 玉宗 十六日は夫人の誕生日だった。お寺に生まれて育った女性である。寺族っていうんだけど、一般的にはどんな風に見られているのかな。喜怒哀楽もちゃんとある同じ人間であることは言うまでもないし、家族は家族なんだけど、やっぱり「仏様」と一緒に暮らしているという一本の筋が通っているんだよね。手前み…
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枕 経 

弔ひの夜はよく爆ぜる炭火かな 玉宗 死者の枕もとであげる読経を「枕経」と言います。 末期の水を含ませ、手を合わせデスマスクを拝していつも感じることがあります。それは「ごくろうさま」という言葉に象徴される感慨です。故人とは殆ど他人であることが多いにも拘らず、自然とそのような感懐が湧いてきます。まして遺族となった方々…
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学術会議論争?!

汝がために摘む撫子ぞ命がけ 玉宗  恥ずかしながら、菅総理のお陰で学術会議なるものが日本にあることをこの年になるまで知らなかった。ホームページには凡そ以下のような事項が掲示されている。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 〈 日本学術会議は、科学が文化国家の基礎であるという確信の下、…
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大般若経転読 

絶望に何かが足りぬ糸瓜かな 玉宗 大本山總持寺祖院では毎日朝のお勤めに大般若経六百巻を転読しています。そこには「空」の真理が様々な角度から何度も繰り返し説き示されて、あたかも私どもの煩悩の根深さというものを教えているもののようでもあります。 私には私の世界という有難くも厄介なものがあります。絶望はそのような私…
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畢 竟 

露けさに眠るも僧となりしより 玉宗 『正法眼蔵随聞記』の中に、道元禅師ご自身の行状回顧として次のような逸話が記されています。 ある日、教えて言われた。 わたしが宋にいた時のこと、坐禅の道場で古人の語録を読んでいた。 その時、ある、四川省出身の僧で道心あつい人であったが、この人がわたしにたずねて言った。…
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人間らしさもいいけれど

随分と生きて来たよな芒かな 玉宗     「つまづいたっていいじゃないか にんげんだもの」 詩人にして書家の故・相田みつを氏の言葉である。相田氏の詳細な生涯は存知していないが、死後その作品を御長子が美術館などに所蔵し、著作権管理をしているらしい。 私は以前からこの言葉にどこか引っかかるものがあることを誤魔化せ…
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馬の耳 

能登沖を走る白波小豆稲架 玉宗   「馬の耳に念仏」という言葉がありますが、禅的解釈になると少し様子が違ってきます。 人間は眼耳鼻舌身意の六根を持ち合わせている命の反応体です。音は私が分別する以前に耳に入っています。ものは私が意味付けする以前に眼に見えています。五感はすべて私の分別や意味付けや見識や意見や理屈や…
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虚子の桜

鳥渡る五七五の彼方より 玉宗  輪島の永福寺には「能登言葉親しまれつつ花の旅」という虚子の句碑がある。戦後間もなく輪島に来輪し、永福寺において地元のホトトギス探勝句会の面々と句会を開いている。現在もお寺には当時虚子が控室として使った部屋があり、お寺の者は今も「虚子の間」と呼んでいる。その「虚子の間」には永福寺本堂正面で…
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雲水

雲のこころ水のこころや爽やかに 玉宗 「雲水(うんすい)」という言葉は「行雲流水」又は、「雲心水意」の意です。「雲衲霞袂」とう言葉もあります。雲を衣とし霞を袂とする。禅の修行者のことを「雲水」と呼びますが、行く雲流れる水のごとき自在にして拘りなき境地を理想とするところからきています。逆に、留まるということは執着するとい…
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命の尊さ

いのちほどの火の恋しさよもみづれる 玉宗    わたくしどもは、社会という謂わば横軸の世界に生きています。災害からの復興といったこともそのような世界での支え合いとも言えましょう。そのような地平でのいのちの価値、評価、相対的意義づけとでも言うべきものを与えられたりします。支え合う横軸の世界。それはそれで尊い事ですが、何…
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結婚しているお坊さんは仏弟子じゃない?!

寄り添へるこころに通ふ草の花 玉宗     私もそうであるが結婚しているお坊さんを本来の仏弟子として認めたくない、という人がいることを知らない訳ではない。妻帯が現代の仏教の衰退を招き、未来の仏教を行き詰らせ、お釈迦様の教えを台無しにした似非仏弟子に溢れかえっている現代!という正義があることも、出家仏教など欺瞞だと言い…
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旬を生きる 

謎解けぬままに老いたる木の実かな 玉宗           不思議なもので季節の移り変わりとともに旬の果物が食べたくなる。そして旬を過ぎたものは食べたくなくなる。 この間まで西瓜が食べたくてしょうがなかったが、今では西瓜を食べる気がしないし、食べている人に嫌悪感さえ抱きかねない。昨日はなんだか無性に葡萄が食べたかった。…
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偏見を越える一歩

コスモスを吹く風だれも咎めざる 玉宗  先日NHKテレビで日本で暮らしている黒人二世の若者たちが受けている差別、偏見の現状を紹介する番組があって、いくつかの気付きや反省させられるところがあった。  見た目で人を判断するなという言葉をよく耳にも口にもするのだが、実際のところ人は徹頭徹尾見た目だけで人間関係の対応をし…
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無心に生きる

コスモスを吹く風だれも咎めざる 玉宗 気持ちよく死ぬ為には気持ちよく生きるしかありません。 「気持ちよく生きる」とはどういうことか?自分が気持ち良ければそれでいいのか?結論を言えばそれでいいのだと思います。問題はその自己の何たるかです。欲望に振り回される自己。そのような自己の「気持ちのよさ」とは一過性のもの。つまり苦…
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数奇な人生?!

生き死にのいづれ淋しき曼殊沙華 玉宗      左から実兄、八百屋の倅、実妹、そして私。兄とは二つ違い。妹も二つ違い。八百屋の倅は妹と同い年。昭和40年頃だろう。  長男でもあった兄は勉強はさほど得意には見えなかったが、運動神経がよくバスケットの主将をつとめたりしていた。誰に似たのか正義感が強く…
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震災を生き延びた二人

生きて来た二人の朝の桔梗かな 玉宗 結婚して三十五年。 亡くなられた板橋禅師は私のことを褒めることは滅多になかったが、夫人のことは褒めちぎるのである。 「あんたさんには勿体ない」と仰るのが常であった。どうも本心からの言葉、心情であったらしい。夫人を褒められて悪い気はしなかったが、本人にしてみればなんだか面映ゆい。自…
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法要を終えて

緑陰に仏の遊びしてゐたる 玉宗 コロナ禍の中、石川能登寺院を結集して行われた大本山總持寺祖院御征諱法要。来年の開創七百年慶讃行持も遣り遂げられるに違いないと確信した。宗門にあっても當に地方の時代。勿論、全国曹洞宗寺院や檀信徒の復興支援、そして郷土愛と道愛があったればこそ。 今回の法要では總持寺三世普蔵院開基太源宗…
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『寺 報 九月号』  法輪山興禅寺・鳳来山永福寺 

森の子が笛吹く猿の腰掛に 玉宗 「宗教」という語は、幕末期に翻訳されたものですが、「再び結びつける」という意味があるそうで、そこから、神と人を再び結びつけることと理解されていました。 「神と人を再び結びつける」とは「神の手元を離れた人間」がいるということです。「宗教は阿片だ」と批判する人がいます。然し、「宗教」が…
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お袈裟の色が気になりますか?

雁の来るころといふ海の色 玉宗    お坊さんと云えば墨染の衣というイメージがあるかもしれないが、お釈迦様もその弟子も、みな糞掃衣(ふんぞうえ)と呼ばれるお袈裟を身に着けていた。「糞掃衣」とは捨てられて顧みられなくなった襤褸布で作った衣のことである。色彩も壊色(えじき)と云われるものである。原色ではなく謂わば汚れたような、濁…
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大法要近づく

開山の心を今に秋澄みて 玉宗  大本山總持寺祖院では毎年九月十二日から十五日にかけて、御開山常済大師二祖国師御征忌大法要が執行される。 御開山は太祖常済大師瑩山紹瑾大和尚(一二六四~一三二五)。そして、御開山のお弟子である大現宗猷國師峨山韶碩大和尚(一二七六~一三六六)のお二人への報恩行持である。 「總持寺に於ける…
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いのちその日暮らし 

鉄鉢に明日の米あり夕涼み  良寛 良寛さまの周りにはいつも子供たちがいました。子供達が朝も夕方も懐(なつ)くようにやってきます。それを一つも煩わしいと考えずに子供たちと一緒になって遊んでいました。また、村人が畑仕事を手伝ってくれと言えば、畑の中に入りました。時には草引きもし、家の手伝いもしたことでしょう。月夜の…
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韜晦の系譜・あるがままに生きる禅者たち

浮遊せる花のあかるさ秋桜 玉宗 先ほど亡くなられた板橋興宗大和尚が良寛を慕っていたことは有名だが、ならば、どうして「禅師」という権威、地位に就いたのか。 師匠はその修行時代の若い頃から、宗門に於ける良寛の再発見、再確認を論文などでも提言しておられたのである。それは宗門に於ける「悟」の再確認という文脈の中で語られている…
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仲秋のこころ

露の世にひとり遺されわれは月の子 玉宗  秋を人生の途上で捉えるならば、ちょうど今頃の六十代かなと思ったりする。なんだかんだいっても人生の後半であり、初老という域に蠢いている。自省する時間が多い。灯火親しむ訳だ。 そんな秋の気配、自然の気息があり、否が応でもそんな自己の肉声、心模様を一句に留め置きたくなる。人生の謎解…
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闇を生きる

火宅の灯とどかぬ闇に鳴くちちろ 玉宗 一寸先は闇と言われます。諸行無常なる人生の歩みは、まさに闇を手探りして歩むようなもの。「闇」とは何か?わが思いを越えて展開する生死去来、時節因縁、諸法実相。それをしも人には「闇」と映るのではないでしょうか。 仏道は、そのような危うい人生の闇を歩む、一つの灯です。無常なる諸法の実相…
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塩田句碑

塩田に百日筋目つけ通し 澤木欣一 先日、所用で輪島市曽々木の海道を走った。 「窓岩ポケットパーク」となずけられた一画に、「風」主宰・故澤木欣一の「塩田句碑」がある。建立当初は同じ輪島市町野町内の一キロばかり離れた旧町野高校近くにあったものを、後に現在地に移したのである。塩田が海岸とは切っても切れない地場産業であったこ…
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禅的信のありどころ

昼寝覚め生きた心地のしてならぬ 玉宗 「仏法の大海は信を以て能入と為す」という言葉があります。 「信」は私が世界を受け入れる為の最初の関門のように考えられています。つまり、私の側の都合やチャンネル操作、自律が問われているものの如くです。しかし本物の「信」とは、「法」という「向う側の都合」を全て受け入れて生きている今の…
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ひたすらなるもの 

秋蝶来それどころではなきやうに 玉宗 世に「無くて七癖」と云われます。 癖にも様々あります。迷いたがる癖、悟りたがる癖。私という訳の分かったような解らない世界に拘りたがる癖、自分持ちにしたがる抜き難い癖。人間には、今という生きているここの事実に様々な思いを持ち込む癖があります。まっさらな今の様子に着色し、或いは色…
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無分別を生きる 

茄子咲いて今日あることのうれしさよ 子供を見ていると教えられることが少なくありません。子供は今を今として無心に生きているように見えます。分別が足りないことを大人は危ぶみもし、笑ったりもするのですが、そのような大人が分別が過ぎた挙句の煩悩に苛まれて生きているのです。今をまっすぐ戴くことが難しくなることが大人になることだと…
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清浄なるもの 

コスモスに吹く風吾にも欲しいと思ふ 玉宗 曹洞宗ではお便所のことを東司(とうす)と呼称しています。 飲食と排便は貴賤・貧富の別なく神聖にして犯すべからざる命の営みです。この時ばかりは、人間は神様のように油断しています。そのような訳ありの命の現場は清浄(しょうじょう)なる現場でもあります。玄関とトイレと仏壇をみれば、家…
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一遍上人のことば

夕風にぐらりとゆらぐ酔芙蓉 玉宗 「生ぜしも独りなり死するも独りなり されば人と共に住するも独りなり」 一遍上人のお言葉です。いのちの実相。それは自己ぎりの世界でありながらも自己を越えたところと切っても切れない世界の様子そのものです。いのちは孤独なものではありますが孤立しているのではありません。存在、そのものが既…
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ままごとのこころ

盆棚のままごとなしてしつらへり 玉宗 結論を先に言えば、仏事はままごとである。人生はままごとである。諸行無常を生きるとは、ままごとである。というのが私の実感である。  ままごと(飯事)とは、幼児の遊びの一種。おままごとともいう。分類上はごっこ遊びの一種と考えられており、身の回り人間によって営まれる家庭を模した遊び…
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面影の人

野に下り紫濃ゆき葛の花 玉宗 先日13日朝刊の北国新聞紙上に「板橋興宗禅師をしのんで」という寄稿文を載せて戴いた。以下のようなものである。私にしては分かり易い文章だったらしく、多くの方々から、感動やら感謝やらのお言葉をかけて戴いた。當に、弔句にある如く、「面影の人」なってしまわれたのであるが、生死一如。わが命がそうであ…
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様々だなあ

蜘蛛の糸色なき風に破れたる 玉宗  「様々だなあ・・」と呟くのが父の口癖であった。 そんなときの父の表情を、半世紀近くになろうとしている今も未だに忘れられないでいる。 それは好きなお酒を呑んで酔いの勢いを借りたときだけではなく、素面の折りにもしばしば耳にした。子供心にも不思議な響きを持った言葉だった。  人の…
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食いしん坊さん!

芋の葉も赤子包めるほどとなり 玉宗  世に五欲と呼ばれる本能的とも言える欲望がある。色欲、食欲、睡眠欲、名誉欲、財欲の五つ。細かく分類すればもっとあるのだろうが、要するに生きていく力、ダイナモの要素であると言ってもそう目くじらを立てて叱られることもあるまいと思う。 私はどちらかと言えば「食いしん坊」と呼ばれて育っ…
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迷信のススメ

盆三日影絵の如く過ぎにけり 玉宗 お盆も近くなって、何やら気忙しくなってきた。 毎年のことではあるが、どうも盆の三日間は好きになれない。暑いさ中の棚経巡りがいくつになっても慣れない。今年はコロナ対応ということもあるし、厳しい残暑の中でということで熱中症にも気をつけなければならない。先日も人生で初めて軽い熱中症になって夫人…
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