テーマ:法話集

總持寺二祖峨山韶碩大和尚 

瑩山紹瑾禅師の後を継がれた諸嶽山總持寺第二代大現宗猷國師峨山韶碩大和尚は、建治2年(1276)宝達山南麓河合谷村・能登国羽咋郡瓜生田・現石川県河北郡津幡町瓜生大泉庄、押水大海荘に生誕されました。父方は源氏、母方は冷泉家(藤原北家)とされています。 11歳にして教院に身を寄せ、16歳正応四年比叡山延暦寺に上り菩薩…
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苦楽の種?!

パンジーの裏が表であるやうな 玉宗 「人生に苦労の種は尽きない」というような言葉をよく耳にします。 この世に生まれ、ひとり立ち出来るまでは勿論のこと、家族や社会人として生きてゆくことの中にも数え切れないほどの「苦楽の種」が現れます。 然し、本来「種」には「苦楽」の色など着いていないのではないでしょうか。 …
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いのちやわらかく 

菜の花やわだかまりなく空晴れて 玉宗 仏道はないものねだりではありません。自分さえよければそれでいいといった生き方とは志す方向が違うものです。それは「無常」や「苦」という現実を克服するために精神の柔軟さを獲得しなければならなかったということでもあります。 常ならぬものなど一つもありません。避けられない生老病死にジ…
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仏道という生き方

魚は氷に仏弟子山に上りけり 玉宗 市内にある福祉施設から職員を対象にした法話の依頼があった。世に福祉産業といった名称があるのかどうか存知しないが、時代の要請のしからしむるところといった観が否めない。常識化していると云ってもよい。人間社会には様々な生き方があるのが現実である。その道に入ったならばその道の作法、宗旨、規…
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人間らしさを越えて

  早く寝ろ風邪を引くなと喧しき 玉宗 人のこころには人様に言えない闇もあり、光りもあり、善もあれば悪もあり、清もあれば濁もあります。 仏道は人間らしさを否定はしませんが、人間らしさの向こう側とでもいうべき、人間らしさを越えたところを向いて生きようとしているものと思っています。現実を尊重しつつ現実に執着せずかろやかに生…
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命の尊さ 

いのちほどの火の恋しさに寄り添ひぬ 玉宗 わたくしどもは、社会という謂わば横軸の世界に生きています。政治経済から災害からの復興、コロナ禍への対応といったこともそのような世界での支え合いとも言えましょう。 そして時にそのような地平座標軸でのいのちの価値、評価、相対的意義づけとでも言うべきものを与えられたりします…
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知足のいのち

来た道を帰るばかりぞ寒くとも 玉宗   「小欲知足」という仏教用語があります。 欲少なく、足ることを知る。これは他人事ではなくわがいのちの戴き方を言っています。現状に我慢しろといった浅い話ではありません。仏道とは言うまでもなく一人一人のいのちの話です。その深さと豊かさ、いわば縦軸の話しです。そこには、ものたりないと…
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露堂々のいのち

水仙の捻くれながら真っすぐな 玉宗    「露堂々」という禅のことばがあります。 「露」は隠しどころがないということです。裏も表もなく、過去現在未来を通じて変わらない実相世界の様子です。生老病死。すべて堂々たるわがいのちの様子であり、仏道とはそれを自己に引き寄せ学ぶ道程そのものです。 人を変えることはできない…
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いのちその日暮らし 

良寛を想うて眠る蒲団かな 玉宗   良寛さまの周りにはいつも子供たちがいました。 子供達が朝も夕方も懐くようにやってきます。それを一つも煩わしいと考えずに子供たちと一緒になって遊んでいました。また、村人が畑仕事を手伝ってくれと言えば、畑の中に入りました。時には草引きもし、家の手伝いもしたことでしょう。月夜の晩の…
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貧に学ぶ

  裸木となりて清々してゐたる 玉宗 「学道の人は尤も貧なるべし」という道元禅師のお示しがあります。 豊かであってはならない。「貧」であることこそそが「道」に親しむ要諦だというのです。貧しくてしかも道を思う者は、昔の賢人や後世の聖人が仰いでたっとぶところであり、仏祖や目に見えない世界の神たちのよろこばれると…
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今日の法話・禅的信のありどころ

  明日も又生きるつもりの火を埋づむ 玉宗 「仏法の大海は信を以て能入と為す」という言葉があります。 「信」は私が世界を受け入れる為の最初の関門のように考えられています。つまり、私の側の都合やチャンネル操作、自律が問われているものの如くです。 しかし本物の「信」とは、「法」という「向う側の都合」を全て…
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布施は人のためならず

  喜んで寺に大根捨てに来る 玉宗 世に言う「情けは人の為ならず」は、人のためにならないから情けをかけるべきではないとか、結局は自分のためなのだから情けは大切なものだとか、世間では二通りの解釈があるようです。「情をかける」という行為も一つの「布施」です。身と口と心の「三業」を以って貪りの世界に生きることもできるし、同…
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思い出から学ぶ 

てのひらに山河あり雪降り頻る 玉宗 「思い出となればみな美しい」 これは生きている人間のご都合の良さを言っているのでしょうか。思い出を美しいと受け止める人間がいるということではないでしょうか。 無常に棹さし人生を歩んでいる人間の、リアルな、今を限りと力を尽くし、よそ見をせず、いのちまっすぐ、無心に生きている人間…
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無事是貴人 

山眠りものみな遠くなりにけり 玉宗 願い事なんてしない方がいいのじゃないかと思うことがあります。一見願いが叶ったり叶わなかったりしたことも、時が過ぎれば糾える縄の如き次の因縁を展開します。願いが叶ったと言っては有頂天になり、大事なものを忘れ恩を忘れてしまう愚かさの繰り返しではなかったのかと。 畢竟、ものご…
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物心一如

われなくて色なき風のかろさかな 玉宗 人間が持つ「物への執着」は相当なものです。 本人が思っている以上に抜き難いものがあります。過剰な物や情報洪水、そして、満たされないこころの空虚。「断捨離」を実践したいというのも、そのような空虚感を清算したいという切実さの表れなのではないでしょうか。それはものとこころのバランスを欠いた…
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生死に向き合う

  足袋穿いて死者に一番近くをり  私どもは時に隣人として、時に親族として「死者」と向き合うことがあります。お坊さんは一般の方々より「死」に関わることの多い立場かもしれません。正確には「死者を送る」「死者に寄り添う」といった方が実際のところです。 「死と向き合う」とは「死ぬゆくものと向き合う」ということでも…
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畢 竟 

露けさに眠るも僧となりしより 玉宗 『正法眼蔵随聞記』の中に、道元禅師ご自身の行状回顧として次のような逸話が記されています。 ある日、教えて言われた。 わたしが宋にいた時のこと、坐禅の道場で古人の語録を読んでいた。 その時、ある、四川省出身の僧で道心あつい人であったが、この人がわたしにたずねて言った。…
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