テーマ:私の風景

新到さん、いらっしゃ~い!/その3・挨拶を覚える

僧となる不思議な月日朧にも 玉宗  明日がない筈の旦過寮での生活も何日か続き、それにも慣れてきた頃、突然、古参和尚から次のような事を告げられる。 「明日、入堂するぞ」 「入堂」とは坐禅堂に入ることである。暫到の間は「外単」と呼ばれる堂の外側で坐禅をしていたのだが、入堂すると自分の坐る場所が畳一枚…
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新到さん、いらっしゃ~い!/その2・じっと我慢の子であるべし

少しづつ頭よくなる木の芽どき 玉宗  立ちッぱなしの苦行から開放されて「旦過寮」に通される「新到」さん。思わず心の中で「やれやれ」と安堵する。 然し、まだ正式に安居を許された訳ではないので、「暫到・ざんとう」さんとも呼ばれる立場であることを忘れてはいけない。お客さんでもなく、身うちでもない、変な感じ。「おい、…
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「新到さん、いらっしゃ~い!/その1・大きな声で存在を知らしめる」

新到の荷を枕辺に朧月 玉宗 宗門には本山のほかに日本国内や海外にもいくつかを合わせて三十ほどの修行道場がある。僧堂とも叢林とも呼ばれる。叢林とは樹木が叢がっている林という意味だが、修行僧が和合して一つの所に住んで、樹木のように静寂にまっすぐ修行に励んでいる場所を意味している。禅林とも栴檀林などとも称される。 …
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良寛という生き方

堅香子の影と寄り添ふ五合庵 玉宗  良寛さまの周りにはいつも子供たちがいたという。朝も夕方も懐くようにやってくる。それを一つも煩わしいと考えずに子供たちと一緒になって遊んでおられた。また、村人が畑を手伝ってくれと言えば、畑の中に入った。時には草引きもし、家の手伝いもした。月夜の泥棒に黙って蒲団を盗まれたり、墨が…
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いのちの尊さに生きる

生きものの脛に傷ある涅槃かな 玉宗 女性差別問題で揺れている日本社会だが、仏道にあってはどうなんだろう。ひと昔前までは尼僧さんは格のあるお寺の住職になることができなかったことを宗門人ならば知らぬ人もおるまいし、知らぬふりをすることもできまい。現代でも宗門に於ける尼僧の相対数は低いが、今では愛知専門尼僧堂堂長でもある青山…
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足の裏で考える

犬ふぐり徒食の影がたもとほる 玉宗 前大本山總持寺貫首・板橋興宗禅師が金沢大乗寺住職であった頃、本堂の露柱に「足の裏で考える」という貼り紙があった。マッサージ業界のコピーではない。仏道が命の実感・身心学道に参究することに尽きるという禅師様ならではの修行者への指南であると受け止めたい。   われわれは「あたま」が…
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涅槃会のこころ

涅槃図の月が最後に巻かれけり 玉宗 釈尊涅槃の日を慕ってお寺では涅槃会法要が営まれます。 僧堂では涅槃会接心を行っているところもあり、坐禅を以って報恩の誠を尽くします。一般のお寺では涅槃会法要を催し、涅槃団子を撒いたりして、お釈迦様の遺徳に思いを馳せ、お粗末な自己の生き方を新たにする機縁ともなりましょう。 仏教…
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コロナ後の社会?!

春立つやふらりと風の吹く方へ 玉宗  コロナ発生直後からコロナ禍での社会の変化、価値観の変質が指摘されている。命あっての物種を実感せざるを得ない状況に遭遇して、人はだれでも最低限必要なものを選択し、生きるのに無駄なものを省こうと本能的に身構える。それは一見至極当然な振る舞いに思えるが、生きるのに最低限必要なもの或いは無…
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出会いという宝 

春風やまだ調はぬ空ながら 玉宗 人を変え、人を育てるもの。それは出会いではないでしょうか。 出会いは人ばかりではありません。生老病死、天災人災、吉凶禍福、毀誉褒貶等々、様々な出会いがあり、そのいずれもが選ぶことができないものばかりです。 然し、本来、選ぶ必要もなく、全てがわたしの学びの糧、全てが私の鏡であること…
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愚のごとく生きる

仏弟子はほとんどをのこ茎立菜 玉宗 禅宗のよく読誦する「宝鏡三昧」というお経の一節に次のようなものがある。 潜行密用 如愚如魯 只能相続 名主中主 「潜行密用は愚のごとく魯のごとし。ただよく相続するを主中の主と名なづく」 愚かさとは何か。それは自己を知らないことに尽きる。そして仏道に於ける「愚」とは何か。…
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優柔不断ってどうよ?!

忠言も讒訴もならず着膨れぬ 玉宗  民放テレビで日本の首相の優柔不断ぶりを検証するが如き番組があった。出席したパレラー?コメンテーター?の全員が現今の首相を優柔不断とは認めてはいなかったようだが、テーマを主導したメインの心理学者が如何にもステレオタイプなものの捉え方であるのが少し気になった。心理学だけではないと思うが、凡そ「学…
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人間らしさを越えて

  早く寝ろ風邪を引くなと喧しき 玉宗 人のこころには人様に言えない闇もあり、光りもあり、善もあれば悪もあり、清もあれば濁もあります。 仏道は人間らしさを否定はしませんが、人間らしさの向こう側とでもいうべき、人間らしさを越えたところを向いて生きようとしているものと思っています。現実を尊重しつつ現実に執着せずかろやかに生…
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托鉢の風景

托鉢の笠に窺ふ寒怒濤 玉宗  今日は輪島市の海岸沿いの光り浦地区を歩いた。 これが能登の冬の海の正体。こんな日に托鉢もどうかとおもうのだが、しやうがない。ふと、こんな風景の中で道元さんも瑩山さんも托鉢したことはないだろうなあといった感慨が湧いた。一方で、衣を汚したり濡らしたりするような場所や日に托鉢するものでない…
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「たかが俳句、されど俳句」再考

腸の一句もならず寒かりき 玉宗 俳句に手を染めて三十年以上になる。 この間、俳句を引き摺り、俳句に引き摺られてきたようなものだが、最短定型詩が自己表現の一手段であることを疑ったことはない。勿論、それは私の作ったものが作品としてすぐれているか月並みかということと別問題であるが。ご覧の通りの、殆どは凡百の類想の山であ…
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鰯の頭?!

寒き世に一人鈴振るばかりなり 玉宗 寒行托鉢もあと十日ばかりとなった。先日は門前から總持寺祖院僧堂の大衆一行が輪島市内の托鉢に来た。今年はコロナ感染拡大防止ということで輪島以外への遠鉢は中止となっている。例年点心供養をさせて貰っているのだが、世の会食自粛に倣って施主家での点心も中止だという。寒行で冷え切った体に施主家での点…
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命の尊さ 

いのちほどの火の恋しさに寄り添ひぬ 玉宗 わたくしどもは、社会という謂わば横軸の世界に生きています。政治経済から災害からの復興、コロナ禍への対応といったこともそのような世界での支え合いとも言えましょう。 そして時にそのような地平座標軸でのいのちの価値、評価、相対的意義づけとでも言うべきものを与えられたりします…
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知足のいのち

来た道を帰るばかりぞ寒くとも 玉宗   「小欲知足」という仏教用語があります。 欲少なく、足ることを知る。これは他人事ではなくわがいのちの戴き方を言っています。現状に我慢しろといった浅い話ではありません。仏道とは言うまでもなく一人一人のいのちの話です。その深さと豊かさ、いわば縦軸の話しです。そこには、ものたりないと…
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一歩一歩の人生

水っ洟ここにも一人ほとけの子 玉宗 寒行托鉢も中日となり折り返し。 今年は例年になく厳寒の寒中となって頗るやりがいがあるとも言えます。今のところ還暦を疾うに過ぎても歩けていられることに感謝ですな。お命様に合掌。負け惜しみではありません。雪の中、吹雪の中を一歩一歩を踏みしめていく托鉢。それがそのままわが人生であることを…
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初心よければ

  蝋梅のひらかむとしてにほひたち 玉宗 諺に、「終わりよければすべてよし」とあります。 本来は、ものごとは最後の締めくくりが大切であるということのようですが世間では些か趣を異にして結果がすべて、取り繕ってまでしても結果の見栄えの良さを問題にしているかのようでもあります。 しかしそもそもが、何を以…
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仏の日

墓石の雪をのけてや仏の日 玉宗    大本山總持寺祖院管理の亀山墓地には、二祖峨山禅師並びに五院輪住大和尚、そして明治期以後の独住禅師卵塔が建ち並んでいる。 先日、興禅寺の朝の雪掻きを済ませてから、供花を買って亀山墓地に新基建立された本山独住二十三世板橋興宗禅師の卵塔をお参りした。墓地正面の山門を入って左側。禅師の…
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無心に遊ぶ

福笑ひ笑へぬ顔となりにけり 玉宗  М1とかいう漫才を競う催しで優勝したなんとかという二人組の演技が漫才であるのかないのかといったその後の社会の反応が取り沙汰されている。漫才の定義があるのかないか、あるようでないようなことを云う識者や当事者もいたりして、問題があるとしたら那辺にあるのかないのか。どうでもいいような話では…
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祈りの力

雪掻いて無駄骨らしきもの残る 玉宗 寒行托鉢も七日を過ぎた。 礼年にない大雪で雪掻きもなんだが、托鉢して歩くにも難儀する。昨今は雪を解かすのに道路に融水装置が付けられるようになった。車には雪が解けて結構なことだが、歩道を歩く托鉢僧にはシャーベット状に融けた雪水は思いの外に冷たく、まだ裸足に草鞋で雪の上を歩いている方が…
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雪掻き作務

    雪を掻く朝飯前の顏をして 玉宗   昨夜からの吹雪で境内はアッという間に銀世界。本格的な雪作務の季節となった。昨夜、寝る前に二回雪を掻いて、朝の勤行を済ませての雪作務。思えばお寺の雪掻きは半端ない。小さいお寺ではあるが、参道、駐車場、階段、犬走り玄関先と、一般家庭よりは広い方だろう。そんなお寺を二つ管理しなければなら…
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初心に生きる

子を呼んで初めての雪仰がしむ 玉宗  永平道元禅師御撰述『学道用心集』の中に「有所得の心を用つて佛法を修すべからざる事」という項がある。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  右、仏法修行は、必ず先達の真訣を稟て、私の用心を用いざるか。況や仏法は、有心を以つて得可からず。無心を以て得べ…
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「行」に生きる

鉄鉢の向かうに続く雪の山 玉宗 今年の寒の入りは五日。昭和六十二年に永福寺に入って以来続けている一人での寒行托鉢。先代住職は還暦を過ぎて辞めたということだが、私は還暦を五年過ぎても辞める気配がない。夫人には年金を貰うようになったら辞めようかなと言っていたのだが、貧しいお寺のお陰で托鉢も生涯現役でやり続けることになりそうだ。…
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露堂々のいのち

水仙の捻くれながら真っすぐな 玉宗    「露堂々」という禅のことばがあります。 「露」は隠しどころがないということです。裏も表もなく、過去現在未来を通じて変わらない実相世界の様子です。生老病死。すべて堂々たるわがいのちの様子であり、仏道とはそれを自己に引き寄せ学ぶ道程そのものです。 人を変えることはできない…
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 正月寺報

       新年あけましておめでとうございます。 一寸先は闇と言われます。諸行無常なる人生の歩みは、まさに闇を手探りして歩むようなもの。「闇」とは何か?わが思いを越えて展開する生死去来、時節因縁、諸法実相。それをしも人には「闇」と映るのではないでしょうか。  仏道は、そのような危うい人生の闇を歩む、一つ…
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いのちその日暮らし 

良寛を想うて眠る蒲団かな 玉宗   良寛さまの周りにはいつも子供たちがいました。 子供達が朝も夕方も懐くようにやってきます。それを一つも煩わしいと考えずに子供たちと一緒になって遊んでいました。また、村人が畑仕事を手伝ってくれと言えば、畑の中に入りました。時には草引きもし、家の手伝いもしたことでしょう。月夜の晩の…
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貧に学ぶ

  裸木となりて清々してゐたる 玉宗 「学道の人は尤も貧なるべし」という道元禅師のお示しがあります。 豊かであってはならない。「貧」であることこそそが「道」に親しむ要諦だというのです。貧しくてしかも道を思う者は、昔の賢人や後世の聖人が仰いでたっとぶところであり、仏祖や目に見えない世界の神たちのよろこばれると…
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今日の法話・禅的信のありどころ

  明日も又生きるつもりの火を埋づむ 玉宗 「仏法の大海は信を以て能入と為す」という言葉があります。 「信」は私が世界を受け入れる為の最初の関門のように考えられています。つまり、私の側の都合やチャンネル操作、自律が問われているものの如くです。 しかし本物の「信」とは、「法」という「向う側の都合」を全て…
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