テーマ:禅のことば

寺  報 ・ 七月号 

あぢさゐが顔を洗つて出直せと 玉宗   ◎お寺では食事をいただく時に飯台の隅に七粒のご飯を置き、食後にこれを集めて池にまきます。 米のとぎ汁や剃った髪の毛も木の根元へまいたり、埋めたりします。地に返し、天に施す行為です。そこには生きとし生けるものが同じ根をもつことへの供養の心があります。命が天地自然の限りない施しを…
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今日の禅語「天上大風」

雲のこころ風の心や夏安居 玉宗 昨日、ちょっとしたご縁があって掛軸を一服戴くことができた。 「天上大風」である。「天上大風」といえば良寛の字が有名だろう。里の子供にせがまれて、「いろは」とか「一二三」という手習いの字を書いてあげた良寛である。この「天上大風」も凧あげをしていた子に頼まれて、凧に一筆認めたものだとい…
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峨山韶碩禅師の生まれた日

これよりの峨山越えなり谷うつぎ 玉宗 六月二十三日、總持寺二世峨山韶碩禅師生誕地の石川県津幡町瓜生では毎年町民と能登の宗門御寺院が生誕の日に一堂に集い、そのご遺徳をしのぶ法要が執行されます。 生誕地の「瓜生」と言うところは石川と富山の県境に近い山奥で、清流に河鹿の声が響き渡る秘境の地です。禅師御在世往時と変わ…
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大本山總持寺開創七百年を二年後に控えての雑感・その1

緑陰にほとけの遊びしてゐたる 玉宗 令和三年(二〇二一)は總持寺開創七百年となります。 元亨元年(一三二一年)に總持寺は開創され、ここに曹洞宗門の扉が開きました。 高祖道元禅師の開かれた永平寺と太祖瑩山禅師が開かれた總持寺。永平寺を宗旨の帰趨とすれば、總持寺は宗門の淵源であります。その本流の流れを汲む自覚と矜持、そ…
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最後のご奉公?!

海神へ浜昼顔の回向なる 玉宗 先日、あるお坊さんから「法要解説を作ってほしい」と依頼された。 始めは冗談かと思ったのだが、そうでもないらしく、ここは直末寺院の最後のご奉公とするべく、先日来から、宗門の歴史に関する本をぱらぱらとめくり始めているところである。 「法要解説」とは言うまでもなく、眼前に執り行われている法要…
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人生を楽しんで生きるコツ

夏花摘み白象曳いてゆく男 玉宗 興禅寺の花まつりも終了。 去年から始めた「象さん行列」。大津市で信号待ちをしていた児童に車が突っ込んで死傷者が出たということで、公道を花まつり行列するということも、そうそう気楽にできるものではない世の中であることを痛感したものだ。ということもあって、今年は昨年のコースを少し変更し公道を…
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今日のばかやろう「御朱印ってどうよ?!」

鈴蘭の花の遠音に耳澄まし 玉宗 元号が令和となり、記念の御朱印を求めて列をなしたとか、対応に苛立ち職員へ罵詈雑言を吐いたとか、転売して高値に釣り上げたとか、挙句には御朱印発行を中止した寺社があるとか、なんともお騒がせなことに相成っている。 門前の總持寺祖院でも改元に伴い、後醍醐天皇の祈願所ということで位牌もあり、特別…
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一粒の種

ぼうたんの華やぎてゐて仄暗き 玉宗 「一粒の種」という唄がある。 そこには、ある癌患者の遺した詩片が多くの人に感動を与える歌となる出会いがあった。逝く者と遺される者が織り成した心模様。どちらも同じ生死の定めに生きる人間ならではの真心の通い合いがあった。 がん患者のことばをリレー 「一粒の種」 2009年5月23日…
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いのち寄り添う仏の道

大手毬ご飯こぼさぬやうに咲く 玉宗 今年初めての葬儀を控えている。 享年八十歳の男性である故人は昨年の花まつり法要には参拝して、病身の身ながらも私や雲水さんや園児らと共に象さんを引いて歩いていた。思えば平成十九年の能登半島地震に被災した折にも、いち早く駆けつけてくれて、倒壊した本堂の瓦礫の中から御本尊の厨子を私と二人…
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「元号」についての雑感・時間とは何か?

チューリップ中は光りの湯殿かな 玉宗 もうすぐ元号が平成から令和に変る。 私は昭和三十年生まれ。西暦だと千九百五十五年・1955年である。元号があることで不都合な思いをした記憶が余りない。個人的な範囲でだが自分一代の半生を思い出すときに意外と便利なのではないかなとも思ったりもする。西暦と元号という時間軸を持っている日…
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お坊さんという人格・生き方

著莪の花仏を見たる目にあらた 玉宗 先日、越前市から御誕生寺の信者さんにして、日曜座禅会会員でもある方々が四名興禅寺を訪ねてくださった。 私も含めて、お互いに板橋禅師様という生身のお坊さんを慕い、尊敬してお付き合いしている同志ということで、初めてお会いする方もいらしたが、すぐにうち解けて茶飲み話に花を咲かせた…
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「不許葷酒入山門」って、どうよ?!

不許葷酒入山門亀の鳴く 玉宗 禅寺に行くと山門頭に「不許葷酒入山門」と書かれた立て札、或いは石柱がよくある。 これは「葷酒(くんしゅ)山門に入るを許さず」と読むのが倣いであるが、云うまでもなく本来的には葷と酒を寺の中に持ち込んではならないという自律自戒の意味でなければならない。 葷とは韮、大蒜、ラッキョウ、葱、…
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今日の一期一会「心配を貪る?!」

梢吹く色にも春の風近し 玉宗 こう見えてこと家族のことに関しては心配性が過ぎる傾向があるらしい。 「お父さんは心配し過ぎよ。それって、もしかして自分が安心したいだけのことじゃないの?」 という夫人の鋭い観察眼を前にしてぐうの音も出ないのが正直なところ。確かに、私の心配の真相には私自身がこころ穏やかになりたいがための先回…
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今日の禅語「担雪填井」

はればれと寄する波音春近し 玉宗 一月も今日が晦日である。 寒行托鉢も終る節分まであと三日。 「担雪填井」 雪を担って井を填む(ゆきをになってせいをうずむ)という禅語がある。井戸を雪で埋めようとするような無駄なこと、無駄な努力に解するのが一般である。無駄な話はしない。無駄なことはしない。無駄なものは食べない。…
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坊主憎けりゃ袈裟まで憎いの心についての一考察

耐えかねて雪を零せし実南天 玉宗 「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」なんて今更説明するまでもないと思うのだが、このような心理の喩えにお坊さんが駆り出されるというのには歴史的にも、江戸時代の寺請け制度によって堕落したお坊さんという世間の眼差しがあったというような指摘もある。 まあ、そのような一般的な解釈は置いても、こう見えて…
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元旦のこころ・はた迷惑、ってどうよ?!

雪うさぎ雪に埋もれてしまひけり 玉宗 新年あけましておめでとうございます。 さて、今年はどんな年になることやら。わがことながら他人事のように気になったり、ならなかったり。 「己亥」年。猪突猛進ということで、勇猛大精進仏ならぬまでも、脇目も振らず、余念なく、一意専心、仏道に邁進したいものではある。ときに、はた迷惑…
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『安居抄六千句』序文より「俳句という生き方」

月並み句をまた吐くか着膨れて 玉宗 実は私は俳句に多くのことを期待していない。多くはないが無くはないという、その期待していることは何か。 私は出家して仏弟子となったことを人生の再生と認識している。人様にもそのように公言してきた。ところで、詩というものは言葉の再生といってもいいのではないか。俳句定型詩もその例外ではないと思…
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髪を剃る、ってどうよ?!

髪を剃る鏡曇れり冬紅葉 玉宗 お坊さんになって初めて髪を剃った冬の夜は、とてもじゃないが寒くてそのまま眠れなかった。蒲団を引っ被って寝たことである。そのようなことも遠い昔となった。四五日毎に自分で髪を剃ることをして四十年近くなる。葬儀や法要のあるときはその都度剃る。お坊さんがみな剃髪している訳でもない。宗派によって剃髪の威…
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師走雑感「気力体力知力、そして?!」

吊るしある干菜をどけて入りけり 玉宗 今年もあと十日ほどとはなりにけりだね。 二十三日に永福寺成道会を控えている。大掃除も少しづつこなしながらの準備やらなにやら。寄る年波で腰が重たくなっていることを実感せざるを得ない。若い頃は馬力に任せて一人で済ませたものだが、どうも人の手を借りるようになってきた。ここにきて馬力もなんだ…
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今年の漢字一文字「災」にあたって

耐えかねて雪を零せし実南天 玉宗 今年の漢字一文字は「災」だった。 平成30年に起きた天災、震災を検索したら次の様なものがあった。 7月豪雨・大阪府北部地震・草津白根山噴火・豪雪・島根県西部地震・台風第7号、第12号、第20号、第21号、第24号・北海道胆振東部地震。等 この他にも人災や事故が多くある…
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今日の不立文字・「何必」ってどうよ?!

炭火爆ぜ人の来る日のうれしさよ 玉宗 宗門の宗師家の御批判と嘲笑を拝することを覚悟して、「何必」という禅語を私なりに繙いてみたい。 「何必」とは「なんぞかならずしも」といったような、謂わば、接語、反折の辞として今も、本場中国でも使われている言葉のようである。 さて、わが高祖、道元禅師は「悉有仏性・悉く仏性有り」…
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今日の禅語・「白雲深處金龍躍 碧波心裏玉兎驚」

堆き灰に雪積む安居かな 玉宗 例によって夫人が床の間でごそごそしているので、覗いてみる。お軸を掛け直している。早速、これは誰のもので、どう読むのかと聞いて来た。というか、時々、婿さんには初めて見るお寺の宝物を引っ張り出してくる。 これは紛れもなく、總持寺独住六世勅賜真應誠諦禅師玄光道山大和尚の揮毫になる掛け軸…
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もの足りないままに生きる。知足の法、ってどうよ?!

生ながら眼枯れゆくいぼむしり 玉宗 小欲知足という言葉がある。 欲少なく、足ることを知る。これは倫理道徳だろうか。仏道的にはいのちの戴き方を言っているものと思いたい。 欲が多いか少ないか。足りているのかいないのか。それを知っているのは誰なのか。知るとはどういうことか。 眼前に展開する生老病死がある。諸行無…
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公然の秘訣

烙印を捺されて焚火守ることに 玉宗 仏道をならふというふは、自己をならふなり。 自己をならふといふは、自己をわするるなり。 自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。 万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。(正法眼蔵 現成公案) 高祖道元禅師のお示しである。 この…
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一生懸命、ってどうよ?!

杜鵑草風の調べも古りにけり 玉宗 嘗て得度の師匠である板橋興宗禅師に愚痴を言った事がある。 僧堂に出仕していた頃のことである。雲水に少しばかりの毛が生えたような中間管理指導者の立場にあった頃。実力も方便力ないままに大衆の接化を意識するともなく古参然と振る舞っていた。当然のように行き詰まり、周りはだれも相手にしなくなってい…
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お布施は安ければいいのか?!

總持寺の用水跨ぎ芋水車 玉宗 寺院消滅とか、無縁社会とか、無宗教葬儀とか、葬式不要論とか、直葬とか、家族葬とか、お坊さん宅配便とか、不明瞭な布施とか、なんだかんだとセンセーショナルな言葉が躍る昨今のお寺の現代事情。まあ、つまるところ「お布施は安ければいい」というような話なのだろう。それはお坊さん側から出た話ではなく、檀…
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鳳来山永福寺移転統合百年略史

色のなき風に籠るや草の庵 玉宗 十八日に永福寺の観音祈願祭法要を控えてなにかと準備に当たっている。 永福寺の観音さまは如意輪観音である。能登国観音霊場三十番札所にもなっていて、偶に御朱印を頼まれる。市や県の文化財にはなっていないが、由緒ならないことはない。聊か長いが以下に紹介しよう。 鳳来山永福寺移転統…
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和顏童心と長楽萬年、ってどうよ。

花とひらく咽喉の奥まで杜鵑草 玉宗 夫人がまたもや床の間でなにやらカタコト音を立てているので、覗いてみる。 茶席の軸を選んでいるらしい。どちらも板橋禅師様から戴いたものである。例によって、読み方から、その意味までをしつこく聞いて来る。こちらも例によって、半ばお茶らケかして応答するのだが、それでも食い下がってくるところは、…
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直心是道場

月よりの風に破れし芭蕉かな 玉宗 お寺とはそもそもサンガと呼ばれる僧団のこと。修行者の集まり。仏道、つまり宗教的解脱の学びと実践を目的に集まった者たちの場。現代に於も本山とか僧堂と呼ばれる機関には、そのような本質が備わっている。所謂、日本各地にある「お寺」とは、そのような修行機関を体験してきた住職を先導として、或いは同…
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今日の羊頭苦肉・こんな私でよかったら・・・

蓑虫や風に嘯き風に泣き 玉宗 来月二十三日に飛騨高山で講演することになった。 能登半島地震に被災した経験から学んだお寺の存在意義といったものを話して欲しいということで、後先を顧みず引き受けてしまった。御誕生寺開山忌法要を済ませた帰途に飛騨に立ち寄り、事務方を担っておられるお寺を訪ねた。宗派を超えた地元の佛教会が毎年主催し…
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