大志や何処?男のロマン、って言われても・・・
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作成日時 : 2010/10/09 05:26
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ねこじやらしほどのこだはり持ち歩き 玉宗
性懲りもなく韓国ドラマの『朱蒙』を又見ている。夫人の「またか!」と言わんばかりの蔑視に耐えても見てしまう魅力とはなんだろう。
『朱蒙』には「天地神明」とか「運命」とか「大業」という言葉が何度も出てくる。父親であるヘモス将軍の遺志を受け継ぎ、朝鮮統一へ歩き始める主人公・チュモン。高句麗建国の父となる人間のドラマである。当にドラマ以外のなにものでもない殺戮・戦争・愛憎・出会い別れが繰り返される。「現実は小説より奇なり」創り物の歴史に感動しているのはどうかと思わないでもないが、正直、私には面白い。「創作」は「奇」なる「現実」の「真善美」を再確認、手繰り寄せているようなところがある。
遼東半島から旧満州まで及んでいたであろう古朝鮮民族が漢によって領土を奪われ流浪の民となる。ヘモス・チュモン親子は二代にわたり古朝鮮の領土回復、強大な朝鮮国建設へ身も魂も捧げる。その源流は「天地神明」という例によって「神話」からはじまっているのであるが、そんなことは大した問題ではない。「運命」に翻弄されながらも、古朝鮮の流民という弱きもののために命を賭ける、その心意気に泣けてくるというより、「大業成就」への孤独な道を歩む人間の、切なくも美しい心模様に心動かされる。
男とロマンは憑き物らしい。らしい、などという言い方も実は羞恥心のなせるところで、ロマンチストだと言い切りたいのが本音ではある。が、しかし、現実の私のなんと卑小なリアリストであることよ。と言ったところが正直なところなのである。いつから私は「大志」を失くしたのだろう?いや、そもそも「大志」を抱いたことがあっただろうか?
今更言うのもどうかと思うのだが、お坊さんとしての「大業・志し・使命」とは何だろうかと反省させられる。「運命」という言葉も、今ではなんだか他人事のように重い。それほどまでに小人となってしまった自分に突き合わされているということか。人様に偉そうな、解ったようなことを説いているが、突き詰めれば自分の器の中で、自己のアリバイを釈明しているようなものではないか。
人生の折り返しもとっくに過ぎている。ここはもう一つ踏ん張って、最期の仕上げへ向けて「運命」を切り開こうかと思わないでもない。然し、実際は切り開くというより、じたばたせず「運命」に遵って生きていこうか、と言う方が今の思いに近い。「ドラマ」のようにいかないだろうが、人生もまた自己を創造する自作自演の世界である。徒花であろうが、泥人形であろうが、木偶の坊であろうが、それなりの味わいをもった作品に仕上げなければならない。結果は「天地神明」のみぞ知る。
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