再生への旅

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zoom RSS 鬼がいなくなった世界

<<   作成日時 : 2011/02/03 05:01   >>

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鬼も又暗がりに踏む年の豆 玉宗

寒行托鉢も今日が満行の日である。最後は市内全域を一日かけて歩きまわる。暦の上では節分。明日が立春。


節分と云えば、わがお寺でも今夜は本堂に一升枡に入れた豆を供え、お経をあげる。そして、堂内と外へ豆まき。堂内に撒いた豆は一晩掃き出してはならない。又、年の数だけ食べなければならないそうで、年々数が増えて顎が疲れるようになった。義母は九十歳になろうとしているが、いったいどうやって九十粒の豆を食べるのだろう。一日一粒、九十日かけて食べるのかもしれない。

ところで、鬼であるが、その姿は日本各地で違うそうだが、基本的には共通する点は世の中の異端であるという事、鬼とはまさに異端の象徴であるという。鬼にも色々あり、鬼には鬼の言い分、ステイタスがあるようだが、仏教では煩悩を表す悪鬼、又、ひねくれ者を意味する天邪鬼というのもいる。右と云えば左、こう云えばああ云う、といった類か。
現在、この手の救い難い鬼は結構多いのではないのか。

鬼と云えば「怖いもの」というイメージが多いと思うが、現代の「鬼・怖いもの」とは何だろう。闇がなくなった文明社会に妖怪やお化けの居場所がなくなって久しいが、人間より怖いものがないことが明らかになった現代、「鬼」という「怖い存在」「異端者」「アウトサイダー」はどこに行ってしまったのだろうか?神出鬼没という言葉もある。「外」にあった鬼を人間は「自己の内」に沈潜させてしまったのではないか。それってどうなんだろう。

ところで、身近にいる鬼と云えば、わが夫人がその筆頭に推薦できるのだが、鬼も付き合いようで人生に味わいが生まれるから面白い。昨年、「ゲゲゲの女房」が注目されたが、その実態は夫唱婦随の、支え支えられて生きる美しい人生の同伴者であった。「鬼」に象徴される「生きることへの畏怖・いのちの尊厳さ」に共鳴できるかどうか。私の感受性、情緒、心の琴線の質が問われているのかもしれない。

  (写真は鬼ではありません。寒山拾得と呼ばれた唐代の風狂人のひとり寒山です。)





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節分の拙文(平成23年度版)
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つらつら日暮らし
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コメント(3件)

内 容 ニックネーム/日時
節分の霜夜に鳩は居らねども    よし

ならぬこと叶わぬものは皆鬼のせい
まことに可哀相なは豆に追われる
彼なりき
yoshiyoshi
2011/02/03 07:05
こんばんは
 オフ会や豪雪地帯のミステリー旅行と留守にしていました。また娑婆に戻ってきましたのでよろしくお願いします。
湘次
2011/02/03 22:59
 yoshiyoshiさま。
一句、コメントありがとうございます。
鬼の様子も時代と共に変わるのでしょうね。現代はもっぱら商業ベースに乗せられているように見えなくもゐありません。

 湘次さま。
コメントありがとうございます。
お疲れさまでした。
行方不明になったのかと思いました。
(笑)
合掌
市堀
2011/02/04 16:07

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