再生への旅

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zoom RSS 似非お坊さんの托鉢・「こころとかたち」

<<   作成日時 : 2011/04/01 04:56   >>

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蒲公英の黄なるが眩し又をかし 玉宗

禅ブログの真山居士が、伊勢神社参拝の折に参道で見かけた僧形モドキの托鉢モドキの記事を載せていた(http://zuirushinzan.livedoor.biz/archives/55452430.html)。

時々、テレビの取材現場に亡霊のように映っていることもあるお坊さんの托鉢姿。それは門付けしてお経を上げるタイプではなく、ほとんどが棒立ちしているだけのものである。街頭募金などに見られるやり方で、宗門でもこの方法で伽藍再建のための浄財を集めた方がいることを知っている。一日中、同じところに衆目の的、或いは無視の中で立ちつくす。私は今まで専ら一軒一軒の玄関先に立ち、お経をあげる托鉢である。どちらがどうのこうのというつもりはない。その土地の風習とお坊さんの見解に見合った方法で縁を頂くしかなかろう。

今回、取り上げるのは「お坊さんではないのに衣を着て、網代傘を被り、応量器を手にし、誰が見てもお坊さんの托鉢である」と誤解させてしまう方々がいることである。誰が何と言おうと、自称お坊さんで生涯を貫き通すというのもありかもしれないが、それは今ここで問題にしない。

誰が見てもと書いたが、実は誰が見ても偽物と解るのではないかといいたくなる。少なくともお坊さんが見れば一目瞭然である。お坊さんが違いを指摘しないかぎり、一般の人達は托鉢とはああいうものなんだと認識することだろう。形を真似たらしいが、その形が形になっていない。一般的に「姿・形」の方が真似がしやすいと思うであろうし、「形ばかり真似して、中身がなっていない」という言葉はよく耳にする。然し、ことはそう単純な構造でもないし、実際「こころない形」に惑わされ、救われている現実がある。

大地震被災以来、「思いはだれにもみえないが、思いやりはみえる。心は見えないが、こころ使いはだれにもみえる」というACのコマーシャルが有名になっている。似非お坊さんたちは「こころがみえない」ことを鵜呑みにして「形」を真似しているのだろう。然し、彼らは「遣り方」「使い方」を知らないと私は言いたい。何故か?こころの本質を知らないからである。

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「意」は似せ易く、「姿」は似せ難しという本居宣長の言葉がある。
「意」「姿」も「似せ易い」「似せ難い」ものであって、それはどこまでも「似てる、似てない」という範囲での話である。それそのものではない。それはどこまでも似ているが非なるものである。だれが真偽を知ることができるのか?本人だけが知っている、と言い切れるものでもない。本人が一番勘違いしている、妄想している、思いこんでいる、偶像こいていることは日常茶飯事である。こころはそれほどに厄介で、うつろい易く、捕えがたい。姿もまたそのような心模様の影絵のようなものかもしれない。

托鉢であがる浄財の額などしれたものであることを、お坊さんも喜捨してくださる方も、暗黙に了解している節がある。何も目くじらを立てなくてもいいだろう。生活保護の一環として大目に見てやればいいではないかという日本人的情緒からの寛容さもそこにはあるのだろう。このような家業も今に始まったことではなく、似非お坊さんもそれなりに歴史があるのかもしれない。

彼らは喜捨してもらった浄財を衣食住に使っているのだろうか?宗教的公金に使っているのだろうか?困窮者や被災者への援助金として使っているのだろうか?そんなことはだれにも聞かれもしないのだろう。
このような現実であることからして、逆に乞食根性で托鉢をしているお坊さんもいることであろう事は予測に難くはない。
然し、本物と偽物を見分ける目を育てなければならないことは、托鉢やお坊さんの真偽だけではなく、あらゆる社会での問題でもあろう。お坊さんが「生き方」ではなく、「職業」として自他に認められている現代。彼らはその曖昧な境界線を見事に衝いて世の中を渡っている。

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以上のような事の通塞と合わせて平等と区別の問題がある。

味噌と糞を一緒にできない区別が歴然としているのも現実であり、味噌も糞も糸瓜もない平等のいのち歴然なることも事実である。同じお坊さんと雖も、小僧さんが禅師様の席に座ることはあり得ないのである。同じ人間であるが、お坊さんと乞食は違うのである。

お坊さんも似非お坊さんも見て見ぬふりをされている現代。お坊さんも社会も、たかが托鉢と侮ってはいけない。小も大もない、取るに足りないと思われる「侮る心」から大きな「綻び」を来すことは古今の歴史の示すところである。「意・こころ」「すがた・かたち」ともに侮ることを已めない限り、身も蓋もない、味噌も糞も一緒の、元も子もない可笑しな世相が続くことであろう。混乱したあやふやな時代なればこそ、騙すほうも騙される方も、暗黙のうちに見事に本物と偽物を嗅ぎ分ける能力が人間にはあると信じたい。





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コメント(3件)

内 容 ニックネーム/日時
エイプリルフールです。
一昨日は本屋で
「ホームレス歌人のいた冬 」を数ページ
立ち読みしました。
ホームレス歌人 公田耕一の歌は
家を失って路上生活者になっても
歌は詠めるかも知れないという
奇妙な希望を与えてくれました?!
岩手の方でもついに女性の被災者が
インタビューのなかで1首
披露してましたよ・・・・・

写真の花綺麗ですね。
私は避難したりで薔薇を
枯らしてしまいました。
いらくさ
2011/04/01 06:00
似非お坊さんがいるなどと、あまり考えてことはありませんでした。
それなりの形なので、信用していたのです。
それに、あなたのおっしゃるとおり、さほど割のいい所業とも思いませんから、「振り込め詐欺」のような偽物が出現するとは思いませんでした。
これからはしっかり観察したいと思います。
ひよどり
2011/04/01 19:13
 いらくささま。
ホームレス歌人ですか。
何がなくても詩を食って生きてゆく人間がいるのですよね。
とにかく生き抜くことが一大事因縁です。
頑張ってください。

 ひよどりさま。
一般の方方はどのような思いで喜捨ているのでしょうね。いかにも怪しいお坊さん、いかにも怪しい政治家、いかにも怪しい営業マン、いかにも怪しい人間というものは珍しいことでもありませんが、神仏を恐れない所業というべきですね。
合掌
市堀
2011/04/02 09:02

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