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zoom RSS お寺は誰のもの?!再考

<<   作成日時 : 2011/08/25 05:07   >>

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蝉の殻畳の上を吹かれをり 玉宗

テレビを何気なく見ていたら、ある曹洞宗寺院の住職と檀家の関係が悪化しているという番組が放映されていた。タレントが現地の様々な「地域のもめごと」を取材するというものらしい。住職にも檀家にもそれぞれ言い分があるらしいが、お寺のあり方をめぐって対立し、果ては住職の排斥運動にまで至っている。包括団体である曹洞宗宗務庁の対応にまで切り込み、その不十分さに批判的な意見もあった。宗議会議員の中にも改革派がいるらしく、マスコミへの対応に前向き?な返答をしていた。番組では「お寺は誰のものか?」と、コメンティターが締めくくっていたが、そのような括り方だけで問題が解決できるのだろうかと思った次第。

社会的に住職は宗教法人の代表役員であり、その定款規約もある。その辞任、解任も規約に則ってしようと思えばできないこともない。組織にはそれなりの構成力があり、解体力がある。お寺が誰のものか、という問題は今更問題ではないかの如くである。不適格とされた役員が解任されることは珍しくもないだろう。しかし、宗教法人では解決はそう単純に展開しないところが宗教法人たるゆえんであろうか。

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お寺は伽藍と住職と檀家が鼎のごとく支え合い、補い合っている。その鼎は何を支えているのか?それは言うまでもなく、仏法という真実の生き方でなければならない。住職はその先導役であり、実践者であり、実務者であり、歩哨のごとき存在である。私は以前から、お寺は誰のものでもないというスタンスで住職をしている。それは今でも変わらない。

妻子が私のものでないように、私が私のものでないように、命が私のものでないように、すべてひとときの仮の宿に過ぎない。それは一般においても同様であろう。私のものとは何か?無一物で生れ、死んでゆく我らであり、それは本来的に生きている今も変わらない真相である。今、私の手の中にあるもの。地位、名誉、財産、それらすべての、なんと危うく、当てにならず、幻のごときものであることか。東日本大震災を目の当たりにして、我々はそのような存在の真相を学んでいるのではなかったか。何を以って私のものとして執着可能だと云うのか。

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それは一人住職だけの問題ではない。檀家も又、お寺が自分たちのものであるという誤解を解いていかなければならない。人生がそうであるように、宗教がそうであるように、社会がそうであるように、お寺もまた創り上げていくものであろう。それはお寺が、つまり三宝が誰のものでもなく、志ある者のために存在する可能性であるということではないか。

信頼していたというかもしれないが、事態が意に反するようになるまで住職や一部責任役員に任せ切っていた側の無関心というものはなかったのかどうか。お互い、至らぬ人間同士である。どうしようもないお坊さんを排斥したい思いは理解できるが、それと三宝の真相に目を瞑るようなことになっては元も子もないというものだ。

今回の事例ではお寺側も檀家側も謙虚になり、虚心坦懐にお寺再生への道を創造して戴きたいと切に思う。






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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
おはようございます
 お互いに求める価値観が異なると合いまん。信頼がないところには敵対関係が生まれますね。
湘次
2011/08/25 08:41
湘次さま。
コメントありがとうございます。
信頼に応えられるような生き方をしなければなりませんが、自己を知ることを疎かにしては謙虚さを失くし、信頼の軸がぐらついてしまいますね。
心していかなければと自戒しております。
合掌
市堀
2011/08/26 15:19

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