再生への旅

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zoom RSS 宗教という差別社会

<<   作成日時 : 2011/12/06 05:12   >>

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前生を包み込んだる冬菜かな 玉宗

安泰寺HPを覗いていたら右のような記事に出会った。
  • 「火中の連2011年 11・12月号サバイバル・レッスン (Part 6)」

  • 結論を言えば大凡私は無方さんと同じ見解である。彼の中に仏道を志そうとする者に国籍や性別の条件が必要でないように、善人でなければならないとか、悪人は敬遠するという根拠が見出せないというのはよく解る。最低必要条件として人間でありさえすればそれでいいのである。いや、犬や猫でもいいと言うかもしれない。仏道を共に参じようとする志だけが安居修行の手形であり、娑婆世界での罪科の免罪符となり得るだろう。

    彼は葬儀をなりわいとするようなお坊さんではないので、葬儀や法事への関わりについて言及していないが、私は葬儀に於いても排除する社会風潮に賛同できない。命の実相に、悪人も善人もなかろう。共に正機である。命には宗派もない。セクトもない。徒党を組まなければならないというものでもない。世間体が良いとか悪いとかもない。布施の多い少ないもない。

    社会的評価が仏事への参加条件とされる世の中とはどうなんだろうと思う。そのような風潮を考慮し差別する宗教界とは一体何なのだろう。お布施が全うなものでないので受け入れられないという危惧があるなら、無報酬で供養してあげればよいではないか。命の儚さを思い遣り、供養したいという人のこころに美醜や嘘偽りはなかろう。

    彼らは所謂気質と呼ばれる全うな社会人とは自己との折り合いの仕方が少し違うだけである。暴力だけが自分達の社会的ステイタスと勘違いして生きている向きがある。必要善があるように、必要悪があるし、不必要悪や不必要善がある。暴力にも色々ある。弱者の暴力、言葉の暴力、目に見えない暴力というものもあるのではないか。そして、善悪も暴力もいづれもそれぞれに於いて過程的、中間的人間模様があり、約束を守ったり破ったりして社会的恩恵や社会的制裁を受けているのが現実だろう。

    そもそも、宗教という仲間作りは差別的要因が付き物なのかもしれない。赤信号みんなで渡れば怖くない、という心理がどこかにありはしないか。そういう意味では無方さんが指摘する『独生独死独去独来』という経文は宗教が仲間作りではなく、どこまでも個人個人の落着しなければならない問題であることを教えている。善悪の業もその例外ではない。善人悪人それぞれがそれぞれの業を背負い、解決させるのが宗教の本義であろう。社会的風潮を考慮するという弁明は、人間の向うにある彼岸を教えてあげる機会を放棄してはいないか。
    現代の宗教界が数を頼んだ現代の弱い者いじめ、そのような領域の暴力に傾斜していないことを祈りたい。







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